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旅立った人 [館長日記]

ブログが中断していた半年間。宇多津というか自分の身の回りでは、いろいろあった。

仕事帰り、たまに立ち寄る大熊酒店。そこの常連さんで、最古参の吉田正さん(常連さんたちからは、“よっさん”との愛称で呼ばれてました)が、病で旅立たれた。

もう引退されていたが、一度、宇多津の復元塩田で塩づくり体験した際にも、手取り足取り教えていただいた。塩水を塩田にまく、「浜かい」の名手で、もんだれ杓をふるってまく塩水が霧のようになり、虹ができていたのが印象的だった。

そして、塩田だけでなく、大熊さんでの角打ちでも、店奥のいつもの指定席で、やさしく迎えてくれていた。吉田さんの雄姿は、研究ノートの「宇多津 角打ち文化宣言」でも紹介しているので、ぜひご覧いただきたい。

私にとって、大熊さんでの角打ちは、仕事疲れを静かに吹き飛ばしてくれる、大切な時間と場所だ。最初はおそるおそる、常連さんたちの片隅に加えてもらい、段々となじみのメンバーの一人になっていく過程が、しみじみ楽しかった。もしも、吉田さんがあの場にいなければ、大熊さんの常連になれたかどうか、あやしいものである。

ありがとう、吉田さん。お世話になりました。


開通しました [館長日記]

永かった・・・・・・・・。

自分のブログに記事をアップできなくなって、早7ヶ月(涙)。なぜできなくなったのか、何をすれば回復するのか。さっぱり分からないのが、アナログ人間の悲しいところ。熱心の読者の方たちから、「最近、全然アップしてないけど・・・・・」と言われるのが、申し訳ないやら、哀しいやら。

なぜ、再開できたかも、よく分からないのですが、何とか再開できそうです。

そして、管理ページを見て、びっくりとともに涙、涙・・・・・・・。

もう、4万4千件以上、閲覧してくださっていたとは・・・・・・[たらーっ(汗)]

ひたすら感謝、としか申し上げられません。

アップしたいネタ、情報はまだまだありますので、読者の皆様、今後ともよろしくお願いいたします。


「モノ」としての、心霊写真 [館長日記]

お盆が近い。

というわけでもないのだが、最近、私の周辺では、妙に異界の話が飛び交う。ついさっき、立ち飲みしてきたところでも、常連さんが「妖怪」の話(自説?)を披露したりしていた。

異界に敏感な小中学生は、心霊映像を見て、大騒ぎしている。大騒ぎするくらいなら、見なければ良いのに、なぜ見るのだろうか?そんなことを思う当方は、よほど鈍感なのだろう。

テレビで頻繁に放送される心霊映像を見ていて、気になることがある。

やたら物質感豊かな映像が多いことだ。

人間の眼と同じシステムをもつが、そこには一切の「解釈」が入らない(はずの)映像機器に映る、「霊」の姿が、やたらに質感があるのだ。ということは、「霊」もまた、物質なのだろうか?

もしそうでなければ、物質感あふれる映像は、すべてトリックか、見間違いということになるはずだ。好意的に見れば、見間違いはその映像を見る受け手側の問題なので、あり得る話だ。何せ、どこかで読んだが、人間は3つの点があれば、人の顔と受け止める認識構造をもっているのだから。

しかし、見間違いで片付けられない映像や写真なら、どうなるのか?夏休みの宿題として、少し考えてみたい。

 


法隆寺は、焼けてけっこう [館長日記]

だが嘆いたって、はじまらないのです。今さら焼けてしまったことを嘆いたり、それをみんなが嘆かないってことをまた嘆いたりするよりも、もっと緊急で、本質的な問題があるはずです。

自分が法隆寺になればよいのです。

失われたものが大きいなら、ならばこそ、それを十分に穴埋めすることはもちろん、その悔いと空虚を逆の力に作用させて、それよりもっとすぐれたものを作る。そう決意すればなんでもない。そしてそれを伝統におしあげたらよいのです。

そのような不逞な気魄にこそ、伝統継承の直流があるのです。むかしの夢によりかかったり、くよくよすることは、現在を侮辱し、おのれを貧困化することにほかならない。

(中略)

私は嘆かない。どころか、むしろけっこうだと思うのです。このほうがいい。今までの登録商標つきの伝統はもうたくさんだし、だれだって面倒くさくて、そっぽを向くにきまっています。戦争と敗北によって、あきらかな断絶がおこなわれ、いい気な伝統主義にピシリと終止符が打たれたとしたら、一時的な空白、教養の低下なんぞ、お安いご用です。

 

岡本太郎『日本の伝統』(ちくま学芸文庫『岡本太郎の宇宙3 伝統との対決』所収、2011)より。

芸術論として、伝統をどのようにとらえ、継承していくか、ということを法隆寺金堂の焼失(昭和24年)を題材に取り上げ、「自分が法隆寺になればよい」と断ずる岡本太郎。

わが身を含めた創作者の問題に限定しないで、日々の生活を送りながら芸術に接する、ふつうの人々に向けたメッセージとして、「自分が法隆寺になればよい」と言っているのだ。

伝統=過去をどのようにわが身に引き受け、今日を生き、明日を見通すのか。それは、今日を生きる人間の問題であり、伝統を盲信することではない。そうした岡本の主張は、歴史(学)にも通底しているはずである。


資料に潜り込む・・・・・・ [館長日記]

ここ2週間ばかり、仕事の関係でいろいろな歴史資料と向き合っている。

そうした資料の内容については、別の機会、別の場で公表できれば、と考えているところだが、資料を読み込むことは、なかなか大変な作業であることを痛感している。

その資料を通じて、書き残した人や、その人が置かれた当時の社会が、少しずつ、見えてくる時がある。しかし、そうするためには、とにかく一定時間、その資料の中にはまり込んでいく必要がある。

資料にはまり込む時の感覚は、光の届かない深い海の底へ、意識を集中して素潜りするかのようである。ひたすら、海の底=資料の語るところを凝視し続ける。周りには誰もいない。ただひたすら、自分の意識を研ぎ澄まし、集中させていく。そんな感じだ。自分の能力は知れているから、なおさら資料へ沈潜する努力は欠かせない。

ただ、それを何日も続けていると、周りは一切視界に入らなくなり、自分の中だけで意識が完結するようになる。自分の外に意識を拡げようとしても、潜水病のようにクラクラする。

素潜りもほどほどに、ということなのか。しかしほどほどでは、資料へ沈潜することはできないのだが。


デジタル天国 [館長日記]

この2週間ほど、家のPCの調子が悪い。

デジタルの機器の調子が悪い、というは何か「想定外」のように思えるが、機器を取り扱い、入力する主体が人間というアナログな存在である限り、アナログ側の動き一つで、デジタルはどうにでもなる。

デジタル機器内部は、デジタルな世界なのだろうが、入力するアナログ存在が機器とかかわるためには、インプットの部分はアナログにならざるを得ない。キーボードというアナログパーツに。その入力された情報を処理するのは、まったくのデジタルだが、回路というモノそのものは、工場で組み立てられた全くのアナログ素材である。

デジタルが存在するために、どこまでもアナログという主体や素材が必要になる。

主体である人間の頭の中は、電気信号でやりとりされているそうだから、デジタルだ。しかし、それをアウトプットするのは、手や足や声帯というアナログ機器だ。

ということは、人間→デジタル機器→人間、という情報の交換は、アナログ機器という交換パーツなしには成り立たないことになる。

わがPC殿も、「主体」である人間の乱暴なキーボード操作(叩き)によって、乱調を余儀なくされている、というところか。

あまり世間と関係ある話ではないが、「地デジ化まで、あと何日」というくちやかましいコールが繰り返されると、「誰がデジタルを動かしてんねん」と毒つきたくなる。

主体としてのアナログと、手段としてのデジタル。それぞれの持ち分をわきまえてこそ、その仕組みがうまくはたらく。わがPC殿の、健闘を祈る。


エンゲルスにとっての家族とは・・・・・・ [館長日記]

一夫一婦制が歴史的に登場したのは、男女の宥和としてではけっしてない。ましてや、この宥和の最高の形態としてではない。その反対である。それは、一方の性による他方の性の抑圧として、つまりそれまで全先史時代を通じて知られなかった両性間の抗争の布告として、あらわれたのである(83~84頁)。

個人的性愛の発作の持続期間は、個々人によって非常に相違する。とくに男のばあいにはそうである。そして、愛着がまったくなくなるか、あるいは新しい情熱的な恋愛によって駆逐されたばあいには、離婚は当事者の双方にとっても社会にとっても善行である(105~106頁)。

エンゲルス『家族、私有財産および国家の起源』(村井・村田訳、1954年、大月書店)より。

抜き書きなので、ぎょっとするような文章に見えるが、エンゲルスの歴史的な分析過程での一文である。史的唯物論を理解するための表現として、読み込むことが必要なのであろう。

しかし、こんなぎょっとする文章を目にすると、自身の生きた同時代の価値観として、エンゲルスが置かれた夫婦関係、あるいは家族の中での立ち位置がどうだったのか、知りたくなってしまう。


江戸時代における歴史イメージ [館長日記]

つい最近、古本屋さんに本を買い取ってもらった。

専門的な学術書2冊+αで、意外なほどの好条件で買っていただいた。これには少々びっくりしたが、良い機会なのでそれを元手に古本を数冊、買った。『世界の名著47 ランケ』(林健太郎・責任編集)、『神話と文学』(石母田正)、『世界教養全集16 歴史とは何か ほか』(ねずまさし外・訳)、『歴史における言葉と論理Ⅰ・Ⅱ』(神川正彦)。

これらの本を読むのはこれからだが、1970年代前後は良い本がたくさんあることを実感させる。

これらは、「歴史とは人間にとって、何なのか」を考える内容であるが、最近、同じようなことを考えさせられる資料を少しずつだが、読んでいる。

『讃岐国大日記』という資料である。ご存知だろうか?

江戸時代前期、17世紀後半頃(承応頃か)にまとめられた、編年体の年代記である。讃岐の誕生(由来?)から江戸時代までの流れを、当時知られていた史料にもとづき、まとめている。

そこに書かれていることが、史実かどうか、つまり「正しい歴史」かどうか、という見方には、全く興味がない。そこには、平成になってからの県史には載らず、巷間広く流布しているような讃岐の歴史が、簡潔ではあるが多く収められているからだ。

江戸時代の知識人が、どのように自分の地域(郷土)の成り立ちを理解していたのか。そのことを読み取っていきたい。


歴史を知覚する [館長日記]

いつ私に根をおろしたのか、もはや思い出せないが、私には次のような考えがあった、―歴史を知覚することは、眺めることとして表現するのがいちばんよい、多分もっとよいのは、もろもろの像―「像」を何と解するかは、さしあたり全く問わない―を呼びおこすこととして。                            (中略)私の精神は、総じて理論的問題には傾いていなかった。過去の、花咲におう多彩な細目とのじかの接触―その接触がどのようにして得られたものであるにせよ―だけで私には足りたのである。(44~45頁)

とっくに消滅した建物の外観とか、ある特定の親近関係の関連性とかを知ろうとする願望に捉えられるときに行われる、一見ひどくつめたい無味乾燥な文書館通い―まさにこうした文書館の研究で、過去の断片と直接に触れる感じ、さきに私が「アンティーズ」(執着、執念)と名づけたもの、また過去の事物への一瞥を求める憧れ―このような執念と、このような憧憬がいともしばしば人を捉えるのである。(47頁)

歴史的なものの中には、決定論的に定められた進化があるとする、こうした信条は、しかしながら畢竟ときには摂理ないし宿命論へのぎこちない帰依と余り変わらない。                                大きい関連を説明するのに、浅薄な発展概念に甘んずる傾きがある近ごろの歴史観に対してこそ、偶然というものが持つ重大な意義をくりかえし力強く指し示すことが必要である。(83頁)

我々は教訓的な歴史観を克服したと主張するとしても、やっぱり、すべて真に重要な歴史的人物には何かしら範例的なものがこびりついているのである。(98頁)

主題の際限ないくりかえし、音楽的装飾の積みすぎ、あらゆるモティーフの交錯、厳密な組立、ふざけた遊戯―こういったものの中に中世のこの後期様式の全精神が現わされる。それに枠を供したのがブルゴーニュである。(112頁)

人類が未来を思うとき、たいてい過去を呼び「返す」のである。(130頁)

歴史は精神的産物である。―それは知性的に把握されうる像であり、あいつぐ世代と、あいつぐ文化が常に新しく過去の荒涼たる破片―世代や文化の眼でみきわめられる過去の破片―から創り出さねばならなぬ像である。それは、けだかい像であって、それのもろもろの形や線は、真理と認識を求めるいやしがたい渇―この世のいかなる泉もいやすことの出来ない渇―によって定められる。(161頁)

私は、一般に文化を、特に現在の青年を、絶えず若干の危険でおびやかしている少数の心的態度に眼をとめ、ひそかにそれを四つ或いは五つのfontes errorum(誤謬の源泉)と名づけるのを常としている。この一連は次の通りである、一、新は旧よりも常に良い、二、変化は保存よりも常に良い、三、組織活動は個人的行動よりも常に良い、四、一般は個別よりも常に重要である、五、青年は老年よりも常に聡明である。(167頁)

ホイジンハ『わが歴史への道』(坂井直芳・訳、筑摩叢書160、1970年)より。『中世の秋』や『ホモ・ルーデンス』で知られるオランダの文化史学者の晩年の文章である。

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学生の頃、そしてその後も、歴史の普遍性や発展段階の法則を唱える史観を、きちんと学ばなければならない。―それは、脅迫観念のような気持ちだった。かじっては違和感を覚えてやめて、ついにこの歳まで、ちゃんと学ぶことがなかった。

しかし、歴史への知覚方法やアプローチに、ホイジンハのような感覚的(悪い意味ではない)な形があることを知ると、脅迫観念のように迫っていた史観が、鉄壁のように立ちはだかる存在ではなくなってきたような気がする。

そうなると逆に、いやいやではなく、その史観を改めて学ぼうとする気持ちも起きてくる。教条的にではなく、批判的に。


固定観念を変えられるということ [館長日記]

朝寝をしていたら、知り合いのKさんからの電話が鳴った。

ぼやっとした頭でケータイを取ると、いつもの大きな、人なつっこい声が聞こえてきた。

「館長さん。この間コピーしてもらった『南海流浪記』何度も読んだんやけどなぁ、あそこに出てくる『尾の背山』って、仲南の尾背山じゃなくて、箸蔵寺のことちゃうんか?」

「ええ?、だって尾背山では鎌倉時代の山寺の跡が見つかってますよ」

「そうかもしれんけど、あそこでの書きようと、大川山周辺の阿讃山脈の感じからすれば、箸蔵やで。あの辺は何度も歩いた感覚からすれば、ワシはそう思うけどなあ。そのことが気になってもう寝れんで、朝4時から何度も地図見たり、もう一度『南海流浪記』よんでるんや」

朝4時からって・・・・・・。いくら早起きの年輩者とはいえ、すごい。

寝ぼけから抜け出せない私は、いくつか反論を試みた。善通寺の杣山と書いてあるから、やはり言い伝えのある尾背山とみるのがいいのでは、さっきも言ったけど、平安~鎌倉時代頃の山寺も見つかっているし・・・・・・・・・。

そう言いながら、私の反論の根拠が、自分の中で“ストン”と落ち着いていない、一般に言われている固定観念みたいなイメージであることに気づかされた。対するKさんは、あくまで自分の土地感と地域イメージで史料を『解釈』している。

Kさん説が妥当かどうかは別の話だが、自分の視点(立場)を明確にして史料を読み込むという姿勢が明確である。それは、修練を積んで得られる、というようなシロモノではなく、本来その人がもっている感性のような気がする。

不意打ちをくらったとはいえ、どうやら朝の第一ラウンドは私の負けのようである。


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