香川県中世山城踏査記録 九十九山城(4) [松田英治の中世山城踏査記録]

(9) 平坦地14

城の先端部を巻くこの平坦地は紛らわしい。中央部の石垣を伴う土塁(写真21)辺りは城遺構と思えるが土塁の両側が旧軍の防空監視所構築のため相当改変されている。

IMG_0042.jpg写真21 石垣を伴う土塁

土塁の北側を14-1、南側を14-2として詳しく見ていく。14-1は山側を掘り込んで10×15m位の平坦地を造成し建物のコンクリート基礎が現存する。この平坦地が曲輪であったかどうかは現況では判断できないが北端に掘り残しの土盛があり現在道が突き当たる。両側とも通行可能であるが山側は少し高まり古い道跡のように見える。しかし山側は掘り取った状態なので土塁状であったか、土盛から中央土塁先端まで斜面であった可能性がある。しかし石積みの状況から先端は土塁状だったと思われる。

岸は掘り取った土を寄せ、せり出し広くなっていると思われるが、南端に方形の小さな櫓台状の高まりと西側に接して方形の小さな枡形状の掘り込みが有り、土塁との間が通路となっていることから14-1は枡形機能を持った曲輪があった可能性もある。枡形状の掘り込み(1×1m位と小さく少し下に窯跡と思える穴があるので城遺構ではないであろう)には南東の尾根からの道が取り付く。土塁辺りを城遺構と思えるとしたのは以上の事からであるが石積みも古い様に思え、土塁続きの小空間キ辺りも微妙である。

現在、南東尾根からの道は枡形虎口状の掘り込みに上がると土塁に突き当たり左折、再び右折するとキに到る(キ西側の竪堀表示は横穴を示すもので実際は急斜面である)。道はキから曲輪13に上がるが右側は土塁となって道は堀底状でくの字に曲がる。くの字に曲がるのは曲輪13南側へ行くためか、それとも直接曲輪12へ上がるためか。右側の土塁であるがキを掘り下げ、平坦地14-1の山側を掘り取ったため出来た可能性もありこの辺り微妙とした。何れにしても旧軍の改変がどの程度であったかはっきりしない限り城郭類似遺構とせざるを得ない。

平坦地14-2は城遺構ではないと考えている。理由は右端にある前述した横穴(写真22)である。横穴から掘り出した凝灰岩と思える石を岸に積んで平坦地を造成しているのと横穴は大きく防空壕か弾薬庫と思えるからである。東端は穴状地形で西端は一段低くなっている。高射砲の台座か。

CIMG0224変更.jpg写真22 横穴

平坦地14について必要以上に書いたのは城道が取り付くのは此処より他に見当たらず、上3段の石垣を含む遺構から織豊系城郭と考え、戦争遺跡は避けて通れないものの枡形虎口の存在を想定し得るからである。

(10) 東側斜面の段築

現在の登山道は東麓室本の宝珠寺境内からジグザグに登り、途中左側にミニ霊場と思える石仏が続くが中腹辺りから無くなり、しばらく登ると左側斜面に小さな帯曲輪状の段築が認められる。下方の石仏の存在から石仏の設置場所かもしれないが石仏が一体も無く行く道も無いことから城の防御施設の可能性がある。この様な小さな段築は堂山城(高松市)、城守山(じょうがまりやま)城(東かがわ市・さぬき市)に見られる。

(11) 城道

現在の登山道は前述の宝珠寺境内から平坦地14-1へ辿るが、城道はどうであろうか。城跡を踏査したかぎり、又縄張りにおいては東先端以外に道は認め難い。平坦地14-1を枡形虎口とすれば最も理想的であるが、現実味のあるのは土塁及びキ辺りに若干城遺構を留めると考えて、南東へ延びる尾根より取り付く道である。

(12) 城内の導線

曲輪13から本丸への導線は曲輪13から曲輪12へ上がり北端から曲輪1110~9~8~7へ、曲輪7からは二方に別れ南隅より曲輪5枡形虎口オへ至り北西隅虎口から枡形虎口イを経て曲輪3へ入り北側から西進、枡形虎口アから本丸に入る。もう一方は北西隅より枡形虎口カへ、曲輪5北西端から小曲輪群へ上がり曲輪3枡形虎口エに至る、又は北西端の石盛が崩れだとすれば石盛の西側小曲輪は曲輪5の一画となりここから曲輪3へ通じる。しかし虎口受状の小空間はあるものの曲輪3に枡形状の掘込みがないことから前記のエへ至るルートをメインの導線と考える。以下前記と同じである。

■3 考察

(1) 縄張り

九十九山城の縄張りは緩斜面で弱く敵が攻め来るであろう東方に多くの曲輪を築いて防御し、本丸にはその方面に対して両側に折れと土塁を構築、岸は高くして石垣を築いて防備する。

その下2段の曲輪には多くの枡形虎口を備え、高い岸に本丸同様強固に石垣を築く。本丸西側には現在3段の曲輪しか存在せず防御は弱そうだが岸には総て石垣を築き本丸、曲輪3には塹壕と思える鉄砲対策を施して防備を強化する。

縄張りは一見自然地形に即して設計されているように見えるが本丸や西側の曲輪を方形にしようとする意図が窺われ、上3段は折れ、塹壕、石垣、枡形虎口ア・イ・エ・オ・カ等(ア以外は掘込式)を構築していることから織豊系城郭の特徴が読み取れ戦国末期の大改修を示唆し生駒氏の支城網支配の一城郭を強く感じる。

(2) 破城について

香川県で破城を受けたと思われる城は引田城、九十九山城、獅子ヶ鼻城(和田城)である。平成2210月2日破城の痕跡があるかどうか、丸亀市教育委員会の東信男氏と確認調査をした。

まずこの城が総石垣かどうかであるが、筆者は上3段は石垣造りと見ているのは前述の通りである。同行した東氏も曲輪の岸を詳細に歩いた結果多くの石列・石積みが存在し総て繋がることから、同じ見解を示した。図6は東氏の想定図である。

松田氏第6図.JPG図6 東氏想定図 

筆者の目では多くの石垣の痕跡があり、本丸の東端部両側の折れから先端切岸までが石垣を剥ぎ取った、曲輪4の石列(根石)と曲輪が自然地形化している状況にあるものの破城と言えるかと言えば分からないと言わざるを得ない。その理由は次の事による。

ア 壊された石垣の残石の量が少ない。

イ 城跡の西端に古い採石場があるので石垣の石を持ち去った可能性が高い。勿論破城された石を持ち去ったのかもしれない。

ウ 曲輪5に石を整理したような石積みがある。

平成22112728日中四国城郭研究会(題材「破城」)に参加させてもらったが破城についての研究事例は全国的にも少ないようで香川県の破城についても始まったばかりで今後の調査を待つよりない。 

■4 おわりに

九十九山城の遺構について調査した結果を詳しく記した。その成果は石列を含む石垣の残欠を多く確認した事である。とは言っても草木の茂る中の観察なので詳細は不明で図中の石積みも石列の位置も正確ではないかも知れないが図示した辺りに存在することは確かであり、同行した石垣の専門家東氏も確認してくれたので強力な証人を得て心強く思っている。

少なくとも曲輪の切岸の草を刈り取ると石垣の詳細がはっきりし、思った以上の成果を得ることは確実であると考えているので是非大々的な調査が行われることを期待する。

【参考文献】

1 香川県教育委員会 2003 『香川県中世城館跡詳細分布調査報告』

2 池田誠 2010  『戦乱の空間9号』

3 松本豊胤編 1979  『日本城郭大系15巻 香川・徳島・高知』 新人物往来社


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hiro

久しぶりのブログ読ませてもらいました。またいろんなことを教えてください。
by hiro (2012-03-03 00:44) 

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