「屋島」という記憶 [研究ノート]

【屋島という場所】 

屋島という場所には、ある種のイメージが投影されているようである。その歴史的な積み重ねが、一まとまりの「土地の記憶」を形作っているといってもよい。天智天皇6年667)の屋島築城が、畿内から見た備讃海峡のもつ軍事的な重要性を背景にもつことは、多くの先学が指摘している。筆者の関心は、この築城という記録された史実が、その後の屋島の歴史的展開へと連鎖していくところにある。

【平氏政権と屋島】

寿永2年1183~文治元年1185)の1年4ヶ月の間、平氏政権が屋島を本拠にしていたことはよく知られている。『平家物語』では屋島での平氏を、都をはじめ世の動きから取り残された、滅び行く存在として描いている。しかし、そうした見方が平氏の滅亡という事件を経た後の、事後的なものであることは言うまでもない。実際には屋島時代の平氏は、ここから瀬戸内各地へ軍勢を展開して摂津福原を奪回し、都をうかがうまでに勢力を回復していたのである。平氏は戦略的な観点から、屋島を選んだと見るべきであろう。

【要害の地の記憶】

『平家物語』には、「八島の(城(じょう))」という表現が見えるが、これは鎌倉幕府の史書である『吾妻鏡』に「前の内府、讃岐屋島を以て城郭と為す」と見えることと共通する。この時代の貴族階級の一般的素養として、『日本書紀』は必須の古典であり、屋島を選んだ平氏や、その報せを聞いた都人や頼朝たちにとって、「讃岐国の屋島」と言えば『日本書紀』天智6年の記事を思い浮かべた可能性は十分ある。実際に屋島の城郭化が行われたかどうかは、屋島城の調査などで検証される必要があるが、平氏は「要害の地」というイメージにもとづいてこの地を選んだのではないだろうか。

【イメージの再現(1)】 

このイメージは、150年後に再び現れる。建武2年1335)、鷺田庄(現在の高松市西ハゼ町付近)で挙兵した足利尊氏側の細川定禅に対抗して、御醍醐天皇側の高松(舟木)頼重が「矢島の麓に打寄て国中の勢を催」したが、一族郎党討死にしている(『太平記』)。鎌倉幕府を倒した建武政権にとっても、屋島が軍事上の拠点であるという認識があったことが推し量れる。

【イメージの再現(2)】

さらに250年後の天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国攻略にあたり宇喜多秀家率いる2万余りの軍勢が屋島に上陸した後、高松郷(現在の高松市高松町周辺)の喜岡城を攻め落として讃岐を支配していた土佐の長宗我部元親を降伏させた(『南海通記』)。豊臣政権にとっても、屋島のもつ軍略上の役割が認識されていたと考えられる。

【中央からのイメージ】

ところで、述べてきたような「要害の地」のイメージは、讃岐の中で形成されてきたものではない。あくまで中央政府(国家)からの視点である。つまり、屋島という場所を中央政府がそのように見ていた、ということになる。同じような「場所」として、すぐに思い浮かぶのが関ヶ原である。天武元年(672)の壬申の乱における大海人皇子(天武)の本営設置、延元3年(暦応元年、1338)の青野原の戦い、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い、と古代から近世まで三度、「天下分け目」の戦いが行われた。もちろん、要害の地であるためには、地形的な特徴や交通関係などの実利的な要素がなくてはならない。関ヶ原は、実質的な畿内=首都圏と東国の境界にあたっており、古代の三関の一つ不破関が置かれたのもこうした事情による。ただ、同じように注目すべきは、関ヶ原の戦いで家康が陣を置いたのは、壬申の乱の折に大海人皇子が兵士たちに桃を配り勝利した、という故事のある桃配山(ももくばりやま)だということである。家康自身がこの故事を知っており、それを心理的に利用したところに、支配階層にとっての「要害の地」のイメージが生き続けていたことが読み取れる。

【イメージとのギャップ】

しかし、和歌や俳諧の世界における名所(例えば松島)と同じように、中央からのイメージは、ある固定した世界の中に安住する傾向がある。屋島のもつ「要害の地」というイメージが成り立つためには、少なくとも地形的に屋島が文字通りの島であり、他者の侵入を許さない地形条件をもつ、というシチュエーションが必要であろう。現実の屋島は、すでに平氏が拠った頃から、「塩のひて候時は、陸と島との間は馬の腹もつかり候はず」(『平家物語』)という状況であり、対岸の高松郷との間の海域は埋没を続けていた。15世には、片本(現在の高松市屋島中町・屋島西町)周辺に塩田が広がっていたと推測される。したがって中世を通じて、屋島に対する中央からのイメージと現実の地形条件はギャップを深めていったといえる。

【高松築城】

天正16年(1588)から始まる高松城と城下町の建設は、強い権力をもった豊臣大名・生駒氏が、イメージと現実とのギャップを埋めるために行った、新たな要害の地の創出とも見ることができる。その際、野原と呼ばれた場所を高松に変えたのは、単にめでたい地名だからということではなく、屋島を含めた高松郷のもっていた「土地の記憶」を奪い取る、という意図もあったのではないかと思う。

【イメージの連鎖】

こうした地域イメージの連鎖(記憶の継承)を経て、都市「高松」が成立してきたと考えると、また違った地域史の側面が見えてくるのではないだろうか。 

 

野原(高松)から屋島を望む.jpg


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hiro

お久しぶりです。今年は入試などの勉強でいろいろと忙しいのですがまたいろんなことを教えてください。お願いします。
by hiro (2012-05-29 01:19) 

四国の仙人

はじめまして。“四国の仙人”と申します。昨年9月に讃岐高松でお聴きした“講演”がコンパクトに纏められておりたいへんよく理解できました。
                                                                                                                                                                                                                                        
by 四国の仙人 (2012-07-03 17:22) 

館長

hiro さま

 お久しぶりです。
 入試がんばりましょう。勉強疲れの気分転換に、宇多津のまちを
歩いてみては?お堅い歴史の本片手ではなく、好奇心を仕込んで。
いろいろな見え方をするまちの様子そのものが、そこに重ねられて
きた歴史です。「あ、こんなモノがあったのか」「こんな見え方するの
か」から始まることがいっぱいあります。それを考えるために、専門
書や図書館は不要。何を感じるか、という自分の感性が大事です。
 勉強の合間に1日5分、そんなことを考えてみては・・・・・・・?


四国の仙人 さま

 コメントくださり、ありがとうございます。
 去年のお話しというと、讃岐国府でしょうか、それとも屋島ですかね。
仕事の関係もあり、今年と来年は、建築に追いかけていくことになる
と思います。
 でも、建築というハコモノではなく、なぜそれがそこにあるのか、とい
う歴史的な背景が大事だと、痛感しています。

 そのあたりの話もブログに書きたいのですが、またしても自分のブロ
グにログインできません(泣)。アナログ人間の悲しいところです。

 何とか再開できるように、あれこれやっているところですので、再開
のおりには御贔屓ください。
by 館長 (2012-07-16 12:04) 

四国の仙人

館長さま

“超”お忙しい館長様からわざわざご返事をいただきありがとうございます。

“講演”は“屋島”のことですが、“讃岐国府”もハプニングでお聴きすることができました。こちらもたいへんよく理解できました。

仙人も“銃の眼”と同じ設計者による建物で勤務していました。担当が建築関係でしたので、館長さまのご多忙ぶりはよくわかります。

このところの猛暑にめげずご活躍をお祈り致します。


by 四国の仙人 (2012-07-16 17:40) 

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by 岡山商科大学はあなたの夢を叶えます! (2019-04-12 14:44) 

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