山城の立地と眺望 [館長日記]

苦しみ抜いて、やっと原稿があがった。

昨年、宇多津町文化財保護協会の総会でお話しした「仙石秀久と平山城」という内容を、原稿化してほしいという依頼を受けて、書いていたのだが、筆が(キーボードが?)進まない。

というのも、去年、お話しした内容は、『続宇多津町誌』に盛り込んでおり(45~52頁)、今さら付け加えるほどのことを考えていなかったからだ。

とはいえ、せっかくいただいた機会なので、平山城(聖通寺城)の立地について、少し考えてみた。

レクチャーしておくと、平山城は秀吉の四国攻略の後、最初に讃岐の領主となった仙石秀久が入り、大規模に改修したと思われる城である。その立地は、秀久が讃岐の前に領主をしていた淡路・洲本城に極めてよく似ている。

どれくらい似ているかというのは、城の横断面を見ればよく分かる。下の図の上側が平山城で、下側が洲本城である。標高(比高差)と頂上の広さがよく似ている。

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ちなみに、それより先行する、讃岐の代表的な山城の断面は、次のようになる(上・虎丸城、中・天霧城、下・西長尾城)。

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違いは、一目瞭然。頂上の広さと、山すその広さが全く違う。虎丸城以下3城は、頂上が狭く、山すそが広い、これでは山麓に城下町を構えることは難しい。一方、平山城・洲本城は、頂上が広く、山すそが狭いので、城下町と一体化したような城郭をつくることができる。平山城によく似た断面は、秀久の旧主であった信長の安土城によく似る(下図)。

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平山城よりも少し年代が下る丸亀城になると、城地の山はもっと低く、小ぶりになる。徳島城・高知城・松山城も同じだ。下図をごらんいただきたい(上・丸亀城、中・徳島城、下・高知城)。

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平山城が、典型的な山城から、「平山城」(まぎらわしいが、平地式の山城のこと)への過渡期の城であることがよくわかる。

また、平山城は、来るべき九州攻めに備え、塩飽など讃岐の水軍を掌握する意図をもっていたことが推測されるが、それは城からの眺望によく表れている。試みに、長宗我部元親が讃岐経営の足掛かりとした西長尾城からの眺めと比較してみる。まずは西長尾城からの眺望。

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高松方面(西長尾城).jpg

三豊方面(西長尾城).jpg

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讃岐平野全体を見渡すような眺望で、陸地部分に主な関心があるように感じられる。

次いで、平山城からの眺望。

塩飽方面(平山城).jpg

沙弥・瀬居島(平山城).jpg

坂出方面(平山城).jpg

丸亀平野(平山城).jpg

埋め立て地が多いために少しわかりづらいが、海への眺望はバツグンで、内陸部への眺望は飯野山や青ノ山にさえぎられて、あまりよくない。

では塩飽諸島から見たら、平山城は見えるのか。実は、よく見える。図ではわかりづらいので掲載しないが、本島・広島・牛島・高見島・与島・瀬居島・沙弥島から、平山城を確認することができる。まさに水軍の城=海城である。

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そんなことを、カシミールで遊びながら、考えた。

 

 

 


同じことの繰り返しか? [館長日記]

先日(つい最近)、NHKで音楽家の細野晴臣さんが出ていた。

YMO世代であり、たまに細野さんの曲を聴いている身としては、見逃すことはできない。たまっている仕事をそっと脇に置いて、TVに見入ってしまった。

その中で印象に残ったコトバがある。

「いつまでも同じことをしたくない」

「同じところをグルグル回っているように見えて、横から見たら少しずつ上昇している」

たしか、そんな意味のコトバだったように記憶している。

1年前にした話と同じ内容を原稿にしたくなく、行きつ戻りつしている自分にとって、最初のコトバは「そうだよね」と思え、もう少しがんばってみようと思った。

次のコトバは、細野さんとは少し違ったイメージで考えていた。同じところを回っているように見えて、気が付けば少しずつ外側へと拡がっている。そんなイメージをもっていた。だから、細野さんの話を聞いて、ああ同じだとおもいつつ、少し感じ方が違うなぁとも思った。

上に伸びあがる、立体的というか俯瞰的なイメージの細野さんと、横方向の二次元的で地面をはうようなイメージの自分と。細野さんを巻貝あるいは竜巻イメージとすれば、私は蚊取り線香イメージか。

そんなことをぼんやり考えつつ、また、頼まれ原稿に向かう。


商工フェアinたどつ「多度津陣屋物語」 [館長日記]

6月3日(金)と4日(土)の2日間、多度津において第2回「商工フェアinたどつ」が開催される(くわしくは、こちらhttp://www.my-kagawa.jp/setouchi-art/new_infomations/view/26)。

多度津と宇多津、「たどつ」と「うたづ」。漢字で書いても平がなで書いても、ややこしい。よく似た地名だ。かく言う私も、20年前に宇多津の住民になるまでは、区別がつかなかったものだ。

今では、私にとって多度津は、多くの縁があるまちだ。

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多度津の人たちは、独立心旺盛な気風をもっている。それは、まちづくりにも表れていて、多度津商工会議所が行政をアテにせず、さまざまなチャレンジをしている。まち歩きもそうだが、商工フェアもその一つだ。

商工フェアの趣旨は、「多度津の先人のチャレンジ精神を、現代のわれわれが継承しよう」というものだ。明治から昭和初期にかけて、鉄道・銀行・土木・電力・製氷などの企業を立ち上げ、四国の近代化に大きく貢献した、多度津出身の景山甚右衛門や、彼の協働者たちの精神を見習おうというものである。

きっかけの一つは、2年前、景山が起こした讃岐鉄道開業120周年を記念して、町立資料館で行われた企画「景山甚右衛門展」にある。資料館やまちの人々が資料を収集し、地元ならではの目線で組み立てた展示だった。私も少しだけ、お手伝いさせていただいたが、地味な内容ながら現代の人々にも訴えるものがある展示だったように思う。

もちろん、この展示だけがきっかけでないことを、繰り返し強調しておきたい。しかし一方で、この展示を見てくださった商工会議所の会頭に火がついたことも、少しだけ、強調しておきたい。

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ぜひ週末は多度津にお出かけになり、懐かしいまち並みや、まちの人々の気風に触れていただきたい。当日は、会場では歴史講演会やまち歩き、また陣屋跡周辺に残る武家屋敷のパネル展が行われる。会場から歩いて5分の町立資料館では、企画展「京極家一万石の歩み」も開催されています。


世界史の中の日本史(2) [館長日記]

こうして奈良時代(645-784年)に、日本の歴代の天皇は急速かつ組織的に、中国唐の大宮廷の小型の模型をつくり上げた。日本の宮廷生活の、早咲きの繊細な感受性は、1000年のすぐ後に紫式部によって書かれた細やかな恋愛小説『源氏物語』に見事に表現されている。だが真に日本の文化的独自性を培ったのは、各地の館に居を構えた領主たちの、はるかに粗野な生活形式だった。こういった大将たちの政治的、軍事的な権力が伸張し、それとともに朝廷の権限が狭まっていくにつれ―これは1000年以後顕著になった日本社会の特徴である―日本の文化が独自の性格を備えて発展していく基礎がかためられた。(上・347頁)

日本は中国と、西ヨーロッパはビザンティウムと、という風に、どちらも、既存の、高度に発達した隣接の複合文明社会との関係が密接だった。また日本もヨーロッパも、きわだって軍事中心の傾向を示し、またそれが、文明社会の民族の間ではどこにも見られないようなあり方で、社会の全階層にゆきわたっていた。このため、近隣の文明開化の社会に対しても一種の毅然たる態度が生まれ、したがってヨーロッパ人も日本人も、そのような隣人たちから、良いと思ったものを何でも取り入れて、しかも自分たちの誇りの気持ちや文化的個性をなくさないでいられた。その結果、類例のないほど柔軟な進歩成長の能力を彼らは持つようになって、1500年ごろまでに、中世ヨーロッパも日本も、多くの点で世界のどの文明と比べてもひけをとらぬ文化水準や文明のスタイルに到達した。(上・396頁)

日本の文化史における急激な転換や変化は、ヨーロッパの体験におとらず激烈で、またそれが急激にやってくるという点ではその上を行っていたと言える。と言っても、両者間にちがいはあった。日本史の大きな変化が他者の作り上げた環境に対応しておこったのに対し、ヨーロッパ人のそれは、主として自分自身の中に生まれた矛盾や機会に対応して行われたのである。(上・400頁) 

インドでも、中東でも、ヨーロッパのような入り組んだ自然の水路の網の目は存在しなかった。しかし中国の運河と川、日本の刻みの多い海岸線は、極西と同じくらい水上輸送にとって都合のよい条件であった。にもかかわらず、(中略)中国の社会構造はあまりにも官吏と大地主に牛耳られていたので、海運や通商が自由に発達しなかった。日本人の場合は、1300年を過ぎるまでは、あまり海に関心を示さなかったが、やがて勇壮な海寇の時代を経過したのち、17世紀のはじめに、政府は、中国と同じように、あらゆる海上の事業を禁止した。したがって、進取の気象に富んだ商人階級が、官僚の敵意に邪魔されずに、地理的好条件にめぐまれながら、海上輸送の技術の可能性にいどんだのは、ヨーロッパにおいてのみであった。(上・402~403頁)

前回に引き続き、ウィリアム・H・マクニール『世界史』(増田/佐々木・訳)から。

眠れる東洋―中国・インド―と、そこでの「異端」的存在の日本。同じ「異端」的存在としての西欧。そして、「異端」同士の共通性と相違点が語られる。

その中で、勝者としての西欧への道筋が示される。

少しの違和感と、くすぐったいような共感を覚えるのは、私だけだろうか?その気持ちには、私が少年~青年時代を過ごした1980年代の「世界の中の日本」―ジャパン・アズ・ナンバーワン―が刻みこまれているのかもしれない。

しかし、あまりに西欧のサクセス・ストーリーと、そのための「添え物」としての日本像が示されると、こうも言いたくなる。

結果としての歴史ではなく、「あり得たかもしれない世界」を考える歴史にも、意味があるのではないか、と。


53歳の誕生日 [館長日記]

日付けが変わってしまったが、5月26日は、誕生日だった。

といっても私のでは、ない。私の好きな建築の誕生日だ。この26日で、満53歳を迎えた。

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伝統と現代が溶け合ったような、美しいデザイン。

デザインの基盤をなす、構造や空間。

手仕事のような、手堅く着実な施工。

そして、それらは「人々に開かれた建築」というコンセプトにはじまる。

53年を経ても、しっかり大地に根をおろし、落ち着いた力強さを見せていた。

いつまでも、人々に愛され続けることを願って、素木のようなコンクリートをなでてきた。


まち歩き [館長日記]

5月23日付の四国新聞に、香川県埋蔵文化財センターが行っている讃岐国府跡探索事業のボランティアが、まち歩きのガイドに挑戦したことが報じられていた。                                記事の内容は、こちら(http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/locality/20110522000285)。

国府探索事業の成果を紹介するコースとして、2009年からまち歩きを春・秋に実施してきたが、これまでの調査員(職員)によるガイドから、ボランティアによるガイドへと移行する試みだという。                                今回、ガイドを行った梶さんは、私もお付き合いがある方だが、2年間の調査参加で得た知識や経験に加えて、土地勘をもった地元(坂出市府中町)目線でコースを組み立てた、という。

素晴らしいことではないか。 

県内のまち歩きでは、地域の歴史に興味をもった方がガイドをするコースが、結構ある。                                      わが宇多津においても、「うたづの宝 1」で紹介した藤岡さんが、名物ガイドである。

ところで、梶さんと藤岡さんに共通したことが、一つある。                                                        それは、学校教育での歴史は嫌いだったということだ。しかし、自分の地域を知りたい、PRしたいと思った時、自ら歴史を学び始めたのである。

実は、館長日記「歴史病」は、こうした方々の実践に接したことを踏まえて書いた。

知識の蓄積という「お勉強」ではない、生きた歴史の使われ方。

まち歩きについては、機会を改めて書いてみたい。 

なお、国府探索事業については、香川県埋蔵文化財センターのウェブサイト(http://www.pref.kagawa.lg.jp/maibun/sanukikokuhu.html)                                         ボランティアの活動については、「讃岐国府ミステリーハンター調査日誌」(http://mysteryhunter.ashita-sanuki.jp/)                                                 を参照いただきたい。


歴史病 [館長日記]

歴史嫌いだった人が、歴史への認識を新たにすることが、ある。そうした経験をしている人を、自分の周囲に何人も見出すことができる。

なぜ歴史嫌いだったのか。                                                             中学校や高校で教わった「歴史」が、年代や人物、事件の暗記に費やされていたからだ、という答えが返ってくる。知識の集積に、ウンザリしたというわけである。                                           知識の収集を無上の喜びとする人々にとっては、逆にそうした「歴史」は好ましいものとして映るのであるが。

では、なぜ歴史への認識を新たにしたのか。                                                   これまで仕事に打ち込んでいた人生を送ってきて、退職後に地域とのつながりを取り戻したり、深めようとした時に、歴史という切り口にある種の可能性を見出したからだ。                                    知識としてではなく、生活の知恵に活かせる役立つものとして、歴史を見るようになったのである。

したがって、歴史への認識を新たにした人は、昔のツライ経験である、知識の詰め込みを再びしようとは思わない。                                                        むしろ自分と歴史とのつながりを、自分の関心の枠の中で追い求めるようになる。その人にとって大事なことは、年代や人物・事件を正しく暗記することは、どうでもよい作業になる。

私は、歴史への認識を新たにした人たちの活動に、共感を覚える。                                          彼らは、生きた歴史の中に立っているように見える。

確かにわれわれは歴史を使用するが、しかし贅沢三昧ののらくろ者が知の園でそれを使用するのとは別の仕方で使用する、たとえこののらくろ者がわれわれを質朴な優美さのかけた欲求と苦難を上品に見下ろすとしても。換言すれば、われわれは歴史を生と行動のために使用するのであって、生と行動からの安易な離反のために使用するのではなく、また我欲的生と怯懦な下劣な行動を曲飾するために使用するのでは全然ない。歴史が生に奉仕する限りにおいてのみ、われわれは歴史に奉仕することを欲する。(中略)                                                     歴史の過剰は生の造形力を衰弱させ、この生は過去を滋養に富んだ糧として利用することをもはや心得ていない。(中略)青春は歴史病に対する、歴史的なものの過剰に対する傷薬と飲み薬を識っている。いったいそれはどういう名前の薬なのか?                                                              さて驚かないでほしい、それは毒物の名前である。歴史的なものに対する解毒剤の名は、―非歴史的なものと超歴史的なものである。(中略)                                                      私が「非歴史的なもの」という言葉で名づけるものは、忘却することができ、みずからを限られた視界のうちに閉じ込める技と力のことであり、私が「超歴史的」と呼ぶものは、生存に永遠であり同じ意味をもち続けるものという性格を与えるものの方へ、すなわち芸術と宗教の方へ眼を生成からそらして向ける諸力のことである。                                                             【F・ニーチェ1993「生に対する歴史の利害について」『反時代的考察』(小倉志祥・訳、ちくま学芸文庫】

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際限ない歴史的な知識の収集から解放されること、そして自らの身を過去でなく現在に置くことで、歴史病から自由になれるということだろうか。


世界史の中の日本史(1) [館長日記]

仏教の朝鮮と日本に対する影響は、さらに一層根源的なものであった。この二国は独自の強力な文化を有していなかったからである。中国自体が熱心に仏教を吸収していたとき、二国は中国の影響圏の周辺に位置していた。(中略)遠隔の地にある日本は、中国文化の最新の意匠を朝鮮ほど機敏に取り入れることはなかった。それでも、552年に日出づる国を訪れた仏教使節は、大きな成果をあげることができた。その時以来日本は、堂々たる大中国のまわりに群がった一団の文明国、半文明国の一員となったのである。(上・300頁)

同時代のウイグル人と同様に、朝鮮人と日本人は、あくまでも固有の言語を保持すること、また自分たちが接触している文明の中心地で支配的な地位にある宗教とは別の宗教を取り入れるというふたつの手段によって、中国に対抗し、彼ら独自の文化的な個性を保った。(中略)日本は中国から距離的に離れていたため、中国の文化圏に完全に飲み込まれてしまう危険をあまり感じなかった。そこで日本は、600年から1000年までの間に、仏教、儒教をはじめ彼らが輸入し得る中国文化のあらゆる要素を歓迎して受け入れた。この時示された、外国の文物に対する日本人の精力的な熱狂性は、それ以後の時代にも何度かくりかえされ、その度に日本の歴史は急激な転換を見せたが、これはほかには見られない、まったく日本史だけの特徴である。(上・346頁)

ウィリアム・H・マクニール2008『世界史』(増田義郎/佐々木昭夫・訳、中公文庫)より。

文明(中国)の周縁という位置付けと、その影響を受けた文明化への動きが6世紀に始まるという見方は、アーノルド・J・トインビー(『歴史の研究』)と共通している。文明化を経て、日本が世界史に登場するように叙述されている。

歴史=世界史が、文明史であるという立場を示す典型的な叙述である。西欧社会が、文明の継承者であるという確固たる自負に立った歴史観なのであろう。そのためか、「文明以前」と認識されたローマ以前のイギリスや、ネイティブ・アメリカンの歴史について、トインビーやマクニールは自国の歴史であるにもかかわらず世界史の中に位置付けることをしない。一方、その成果の継承者であるという自覚からか、ギリシアやメソポタミア・エジプトの文明に注目する。

日本に対しても、西欧文明と響きあう状況を生み出す資質、つまり「外国の文物に対する日本人の精力的な熱狂性」がまず問題とされていることが分かる。しかしそうした視点は、何も西欧に限られるものではなく、日本人の間でもかなり共有されたものであることに気付く。

知らず知らずのうちに、西欧の価値観を前提に歴史を眺めているのではないだろうか。


懐かし(?)のタニシ [館長日記]

仕事から帰ると、高松のK町に住むOさんから、タニシの串刺しが届いていた。

「いただきさん」(自転車サイドカーで新鮮な魚介類を売りに来る行商のおばちゃん)から手に入れた、貴重な逸品だという。わざわざK町からもってきてくださったことに、まず感謝。

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タニシ。知らない人は、そういないと思うが、「最近、田んぼで暴れまわっている、あれでしょ」という答えが返ってくると、アヤシクなる。あの巨大な、黒々したカタマリは、アメリカから輸入されて拡がったジャンボタニシだ。日本在来のタニシは、もっと小さく、つつましやかな身体をもっている。「タニシ長者」の主人公になるくらいなのだから。

竹串の先を2つ3つに割いたところに、タニシの身がきれいに刺し込まれている。タニシの串刺しを食した経験のある、実家(N県)の親父は、ふつうの串に刺していたと証言している。となると、伝統工芸の団扇を連想させるような端正な串先は、香川県ならではなのだろうか?

そんなことを考えながら、酒のツマに、辛子味噌を付けながら食べてみる。弾力ある食感と、さわやかな後味は、田んぼの生き物であることを忘れさせる。子どもの頃、食べたタニシの味噌汁とはまた違った味。

仕事疲れの身体に、心地よく浸みていく。


歴史を掘り起こすということ [館長日記]

近世城下町・高松の建設については、従来は『南海通記』など後世の史料に依拠して、海浜部の寒村に大規模な造成が行われて近世都市化したとされてきた。しかし、平成7年度から始まった高松港頭地区(サンポート高松)や、大規模民間開発事業に伴う発掘調査により、広範な中世遺構・遺物の分布と、近世城下町へと連続する安定的な地盤が確認されるに及び、『兵庫北関入船納帳』に見える中世港町・野原への関心が高まるようになった。野原は、現代都市の再開発を契機として、現代社会に基盤をもつ考古学という手法により「発見」され、現代人の視野と思考を通じてその姿が構築されようとしている。このことは、(中略)本論に入る前に十分自覚しておいてよい事実である。歴史学の「本流」と自負する文献史学においては、極言すれば野原はこれまで「存在しなかった」からである。                                                                   (中略)「専門家」を保障するのは学問・研究対象の細分化という枠組みの中においてであり、それを越えるような課題設定(なぜ高松に城下町が造られたのか、なぜ平家が屋島に拠ったのか)に遭遇すると、自分の殻に閉じこもるしかないように見える。文献史学・考古学・歴史地理学いずれも同様な事情であろうが、いかに踏み出して語ることができるかが、今問われているように思うのである。                                                                              【四国村落遺跡研究会2007「シンポジウム準備会の記録と雑感」『「シンポジウム 港町の原像」準備会会報』第1号】

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4年前、書いた文章である。

何という挑戦的な文章を書いてしまったか、と当時は思いつつ、書かずにおれなかった。本当にそう思っていたからだ。しかし結果、最も突きつけたかった人々には届かず、意外な方々から共感を覚えるとのお言葉をいただいた。

こんな文章を書いたきっかけは、ある研究会においてシンポジウムに至る予備的考察を発表した際に、とある研究者が発した一言に始まる。

「S君、野原が讃岐有数の港町だったことは、『兵庫北関入船納帳』に書いてあるじゃないか」                  そこで、即答。                                                                  「史料に書いてあるということと、それがどのような意味をもつかという歴史的評価は、全く別です」

即物的に「ある」というだけでは、何も言っていないに等しい。そこから、どのような歴史像を構築していくのか、それは、「ある」と言うだけではできることではない。私は、そう考える。

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「ある」と言うだけで、その気になっていないか。自戒も込めて振り返る。


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