法隆寺は、焼けてけっこう [館長日記]

だが嘆いたって、はじまらないのです。今さら焼けてしまったことを嘆いたり、それをみんなが嘆かないってことをまた嘆いたりするよりも、もっと緊急で、本質的な問題があるはずです。

自分が法隆寺になればよいのです。

失われたものが大きいなら、ならばこそ、それを十分に穴埋めすることはもちろん、その悔いと空虚を逆の力に作用させて、それよりもっとすぐれたものを作る。そう決意すればなんでもない。そしてそれを伝統におしあげたらよいのです。

そのような不逞な気魄にこそ、伝統継承の直流があるのです。むかしの夢によりかかったり、くよくよすることは、現在を侮辱し、おのれを貧困化することにほかならない。

(中略)

私は嘆かない。どころか、むしろけっこうだと思うのです。このほうがいい。今までの登録商標つきの伝統はもうたくさんだし、だれだって面倒くさくて、そっぽを向くにきまっています。戦争と敗北によって、あきらかな断絶がおこなわれ、いい気な伝統主義にピシリと終止符が打たれたとしたら、一時的な空白、教養の低下なんぞ、お安いご用です。

 

岡本太郎『日本の伝統』(ちくま学芸文庫『岡本太郎の宇宙3 伝統との対決』所収、2011)より。

芸術論として、伝統をどのようにとらえ、継承していくか、ということを法隆寺金堂の焼失(昭和24年)を題材に取り上げ、「自分が法隆寺になればよい」と断ずる岡本太郎。

わが身を含めた創作者の問題に限定しないで、日々の生活を送りながら芸術に接する、ふつうの人々に向けたメッセージとして、「自分が法隆寺になればよい」と言っているのだ。

伝統=過去をどのようにわが身に引き受け、今日を生き、明日を見通すのか。それは、今日を生きる人間の問題であり、伝統を盲信することではない。そうした岡本の主張は、歴史(学)にも通底しているはずである。


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