【屋島という場所】
屋島という場所には、ある種のイメージが投影されているようである。その歴史的な積み重ねが、一まとまりの「土地の記憶」を形作っているといってもよい。天智天皇6年(667)の屋島築城が、畿内から見た備讃海峡のもつ軍事的な重要性を背景にもつことは、多くの先学が指摘している。筆者の関心は、この築城という記録された史実が、その後の屋島の歴史的展開へと連鎖していくところにある。
【平氏政権と屋島】
寿永2年(1183)~文治元年(1185)の1年4ヶ月の間、平氏政権が屋島を本拠にしていたことはよく知られている。『平家物語』では屋島での平氏を、都をはじめ世の動きから取り残された、滅び行く存在として描いている。しかし、そうした見方が平氏の滅亡という事件を経た後の、事後的なものであることは言うまでもない。実際には屋島時代の平氏は、ここから瀬戸内各地へ軍勢を展開して摂津福原を奪回し、都をうかがうまでに勢力を回復していたのである。平氏は戦略的な観点から、屋島を選んだと見るべきであろう。
【要害の地の記憶】
『平家物語』には、「八島の(城(じょう))」という表現が見えるが、これは鎌倉幕府の史書である『吾妻鏡』に「前の内府、讃岐屋島を以て城郭と為す」と見えることと共通する。この時代の貴族階級の一般的素養として、『日本書紀』は必須の古典であり、屋島を選んだ平氏や、その報せを聞いた都人や頼朝たちにとって、「讃岐国の屋島」と言えば『日本書紀』天智6年の記事を思い浮かべた可能性は十分ある。実際に屋島の城郭化が行われたかどうかは、屋島城の調査などで検証される必要があるが、平氏は「要害の地」というイメージにもとづいてこの地を選んだのではないだろうか。
【イメージの再現(1)】
このイメージは、150年後に再び現れる。建武2年(1335)、鷺田庄(現在の高松市西ハゼ町付近)で挙兵した足利尊氏側の細川定禅に対抗して、御醍醐天皇側の高松(舟木)頼重が「矢島の麓に打寄て国中の勢を催」したが、一族郎党討死にしている(『太平記』)。鎌倉幕府を倒した建武政権にとっても、屋島が軍事上の拠点であるという認識があったことが推し量れる。
【イメージの再現(2)】
さらに250年後の天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国攻略にあたり宇喜多秀家率いる2万余りの軍勢が屋島に上陸した後、高松郷(現在の高松市高松町周辺)の喜岡城を攻め落として讃岐を支配していた土佐の長宗我部元親を降伏させた(『南海通記』)。豊臣政権にとっても、屋島のもつ軍略上の役割が認識されていたと考えられる。
【中央からのイメージ】
ところで、述べてきたような「要害の地」のイメージは、讃岐の中で形成されてきたものではない。あくまで中央政府(国家)からの視点である。つまり、屋島という場所を中央政府がそのように見ていた、ということになる。同じような「場所」として、すぐに思い浮かぶのが関ヶ原である。天武元年(672)の壬申の乱における大海人皇子(天武)の本営設置、延元3年(暦応元年、1338)の青野原の戦い、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い、と古代から近世まで三度、「天下分け目」の戦いが行われた。もちろん、要害の地であるためには、地形的な特徴や交通関係などの実利的な要素がなくてはならない。関ヶ原は、実質的な畿内=首都圏と東国の境界にあたっており、古代の三関の一つ不破関が置かれたのもこうした事情による。ただ、同じように注目すべきは、関ヶ原の戦いで家康が陣を置いたのは、壬申の乱の折に大海人皇子が兵士たちに桃を配り勝利した、という故事のある桃配山(ももくばりやま)だということである。家康自身がこの故事を知っており、それを心理的に利用したところに、支配階層にとっての「要害の地」のイメージが生き続けていたことが読み取れる。
【イメージとのギャップ】
しかし、和歌や俳諧の世界における名所(例えば松島)と同じように、中央からのイメージは、ある固定した世界の中に安住する傾向がある。屋島のもつ「要害の地」というイメージが成り立つためには、少なくとも地形的に屋島が文字通りの島であり、他者の侵入を許さない地形条件をもつ、というシチュエーションが必要であろう。現実の屋島は、すでに平氏が拠った頃から、「塩のひて候時は、陸と島との間は馬の腹もつかり候はず」(『平家物語』)という状況であり、対岸の高松郷との間の海域は埋没を続けていた。15世には、片本(現在の高松市屋島中町・屋島西町)周辺に塩田が広がっていたと推測される。したがって中世を通じて、屋島に対する中央からのイメージと現実の地形条件はギャップを深めていったといえる。
【高松築城】
天正16年(1588)から始まる高松城と城下町の建設は、強い権力をもった豊臣大名・生駒氏が、イメージと現実とのギャップを埋めるために行った、新たな要害の地の創出とも見ることができる。その際、野原と呼ばれた場所を高松に変えたのは、単にめでたい地名だからということではなく、屋島を含めた高松郷のもっていた「土地の記憶」を奪い取る、という意図もあったのではないかと思う。
【イメージの連鎖】
こうした地域イメージの連鎖(記憶の継承)を経て、都市「高松」が成立してきたと考えると、また違った地域史の側面が見えてくるのではないだろうか。
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【回顧録】
最初に踏査したのは昭和54年9月8日であった。鞍部室本に着き登山口は連光院からとのことから山に取り付いたものの下の方は茅だった思うが草に阻まれ登山道に辿り着くのに難儀した。今思えば9月と言えば夏の直後、草が繁茂、木の葉が茂っているのは当然のことである。
なんとか道を見つけ城跡に辿り着き調査を始めたものの松喰虫による松枯れの倒木と草で前進が困難を極め、その中での踏査である。この時逆茂木による防御の有効性を実感した。調査は難航したが曲輪等遺構は確認でき作図したのが図7である。
この図を今見ると曲輪、土塁、石積みは勿論目測ではあるが曲輪の大きさ、土塁の高さ、石積みの高さ、切岸の高さなどを記し「初心者にしてはよく観察しているなあ」と思う。記憶は定かではないが道は現在と同じで各曲輪の中央を通り本丸に到達、本丸東端の土塁中央を通り、頂部には多くの人達が登山していた痕跡があったと記憶する。
当時の状況を表していると思うので調査ノートのメモを記す。
1 調査日 昭和54年9月8日(晴れ)
2 本丸に井戸ありと言われるが、2×3mの穴があり中央に大きな石があるだけで井戸とは断定できない。石積みらしきものもない。
3 本丸に同心円状の石積みとあるがそれらしきものなし。崩れた石もない(相当量あるはず)。
4 空堀様のものが本丸の西端にある。深さは約70cm。
5 土塁① 高さ70cm長さ7m幅2~3m比較的良く残っている。土塁はしっかりしていて石列らしきものがあるが石は小さい。
6 土塁② 高さ70cm長さ8m幅2m。この直ぐ東側は空堀様に70cm位低くなっている。そのために出来た土塁か。
7 土塁③ 高さ60~80cm長さ8m幅1.5mの土塁が残っている。土塀が崩れた様で弱々しい。中央部が道となっており少し低くなっている。幅も狭い。一部石列らしいものが見える。腰巻土塁か。
8 石塁① 高さ50cm長さ120cm、1~3段積んでいる。北側にも1m位の石列らしいものがあり下の削平地には崩れたような石が多数ある。
9 石塁② 高さ60cm長さ3m、簡単に2~3段積んでいる。少し北には乱雑だが石を積んだ様になっている。
10 石塁③ 高さ50~60cm長さ5m位石積みらしい所がある。
11 横穴 斜線のない5×30mの平坦地に図(省略 古墳の両袖形の石室状で入口幅1.7m、奥の広い所3×3.5m、高さ2m)の様な横穴がある。凝灰岩をくり抜いている。4~5×30mの平坦地はこの穴を掘った時の凝灰岩を並べて作られたものと思われる。土留(岸)に凝灰岩を使っている。この穴は何のために作られたものだろうか。この穴の近くに薄いコンクリートで80×110の四角い穴を作ってあり少し下に径1m位の円い釜跡がある。横穴や斜線のない平坦地は城跡とは関係がないように思うが何のために作られたのだろうか。
12 石塁4 角が立派に積まれた石塁で土塁様になっている。しかし土塁は6×10の平坦地を作ったときに出来たものと思われ城跡とは関係なく横穴や釜跡に関係がありそう。
この城跡はよく残っており本丸を取り巻いた曲輪をはじめ東に向かって作られた階段状の削平地は見るべきものがある。土塁も3箇所あり比較的よく残っている。本丸には井戸があると言われるがこの程度では断定できない。又同心円状に石塁があると言われているがそれも無い。ただ井戸跡らしき穴の周囲に円く石がころがっていたが不整形で石塁とは言えず崩れたとしても数が少なすぎる。
周囲は急斜面で特に西側は崖となっている(採石場だったかも知れぬ)し北側は海である。
この山は東西に長いので東に向かって削平地があるのはうなずける(西側は崖だったと思われる)。眺望は海、観音寺方面に開ける。この城は大軍には抗し切れないだろうが地方豪族との戦いであれば堅城であっただろう。
登山口である蓮光院水子供養地蔵尊の所に30×40の水輪2個積んであり大きな祠等凝灰岩の古い墓が蓮光院に多数見受けられる。また鐘楼の近くに笠(火輪)が10個程積まれている。
この山も岩山なので西側から採石されている。保存できないものか。
以上のように今の目で見ても悪条件の中、よく観察していると思う。
九十九山城は登山、調査には悪条件であったことは勿論であるが石垣の存在を確認したことで特別な思いがある。どの城にもそれなりの思いはある。しかし、なんと言ってもこの城には多くの石積みが存在しその石積みは総石垣の城引田城の石垣にほぼ匹敵するからである。
石積みの存在は地元では早くから知られており、昭和54年12月15日発刊の『日本城郭大系』15(香川・徳島・高知)には「上3段に石積みあり」と記され、縄張図(図8)も載せている。
又、四国新聞『古城をゆく』40(昭和52年2月10日)の記事に石垣についての記述は無いものの「本丸跡には同心円状に十段の石積みあり」と記されている。10段もの石積みは現在存在せず何処を指すのか不明であり、「日本城郭大系」にも記されておらず本丸にあったとすれば井戸と称される周りに石が並べられていることからこれを指すのか。しかしこの石列は1段で10段もの石積みが崩れた痕跡はなく周囲に残石もないので10段ではなく10個であれば納得がいく。他に比較的高い石積みはあるものの同心円状ではない。昭和52年から54年の2年間で石が持ち去られたのだろうか。可能性としては本丸の穴は井戸ではなく石積みの「のろし台」が考えられる。
特別の思いは常に胸にあったのでいつかは再調査しようと思っていたがその他の城調査、仕事の多忙、登山道の荒廃、城跡には松枯れの倒木のこともあって再踏査は延び延びになっていた。折りしも平成9年度から香川県の中世城館跡詳細分布調査が行われ、その調査に加わったことから是非九十九山城の縄張図を『香川県中世城館跡詳細分布調査報告』に載せたかった。縄張図は作成していなかったため踏査ノートの図(図7)を提出したものの中世城郭研究の権威村田修三氏(当時大阪大学教授)の縄張図(短時間の踏査のため詳細を欠く)もあって中世城郭研究家池田誠氏も単なる連郭式の山城とし興味を示さなかった。
平成13年の暮れか14年の初め頃と思うが四国新聞に「有志による九十九山の登山道を復元」の記事を目にした。何年何月何日だったか記憶ははっきりしないが直ぐに登山すると登山道は綺麗に整備され、驚くことに松枯れの倒木は1本もなく城跡は調査し易い状況になっていた。
この日は城跡を歩くだけで帰り池田誠氏に城跡の状態を知らせ同行して調査することを依頼。しかし池田氏は高松市香西町出身ではあるが東京在住で現役であるため仕事の調整がつかないのか返事がなかなか来ない。調査期間が僅少のため仕方なく観音寺市教育委員会の久保田省三氏に連絡、調査することにした。調査日前日、突然池田氏より明日午前11時過ぎに高松空港に着くとの連絡があった。慌ててその旨を久保田氏に連絡、昼から城跡へ向かったが城跡の保存(切岸を階段状に掘っていた)を頼んだことを記憶しているものの久保田氏が同行したかどうかは記憶にない。
調査の結果上3段に石垣の痕跡が有ることを確認、詳細に縄張図を作成することにした。そして平成14年3月25日縄張図(図5)の完成をみた。作成作業に当たったのは中世城館跡詳細分布調査のメンバー、池田誠・松田英治・山本祐三である。ここに調査報告書になんとか間にあい思いがかなった。大満足である。
その数日後3月28日・4月1日・4月2日と3日かけて作成したのが図3・4である。今回の調査の成果は池田誠、東信男、松田英治の意見が一致、九十九山城が総石垣の城であることを確認出来たことである。
平成23年3月10日
]]>(9) 平坦地14
城の先端部を巻くこの平坦地は紛らわしい。中央部の石垣を伴う土塁(写真21)辺りは城遺構と思えるが土塁の両側が旧軍の防空監視所構築のため相当改変されている。
土塁の北側を14-1、南側を14-2として詳しく見ていく。14-1は山側を掘り込んで10×15m位の平坦地を造成し建物のコンクリート基礎が現存する。この平坦地が曲輪であったかどうかは現況では判断できないが北端に掘り残しの土盛があり現在道が突き当たる。両側とも通行可能であるが山側は少し高まり古い道跡のように見える。しかし山側は掘り取った状態なので土塁状であったか、土盛から中央土塁先端まで斜面であった可能性がある。しかし石積みの状況から先端は土塁状だったと思われる。
岸は掘り取った土を寄せ、せり出し広くなっていると思われるが、南端に方形の小さな櫓台状の高まりと西側に接して方形の小さな枡形状の掘り込みが有り、土塁との間が通路となっていることから14-1は枡形機能を持った曲輪があった可能性もある。枡形状の掘り込み(1×1m位と小さく少し下に窯跡と思える穴があるので城遺構ではないであろう)には南東の尾根からの道が取り付く。土塁辺りを城遺構と思えるとしたのは以上の事からであるが石積みも古い様に思え、土塁続きの小空間キ辺りも微妙である。
現在、南東尾根からの道は枡形虎口状の掘り込みに上がると土塁に突き当たり左折、再び右折するとキに到る(キ西側の竪堀表示は横穴を示すもので実際は急斜面である)。道はキから曲輪13に上がるが右側は土塁となって道は堀底状でくの字に曲がる。くの字に曲がるのは曲輪13南側へ行くためか、それとも直接曲輪12へ上がるためか。右側の土塁であるがキを掘り下げ、平坦地14-1の山側を掘り取ったため出来た可能性もありこの辺り微妙とした。何れにしても旧軍の改変がどの程度であったかはっきりしない限り城郭類似遺構とせざるを得ない。
平坦地14-2は城遺構ではないと考えている。理由は右端にある前述した横穴(写真22)である。横穴から掘り出した凝灰岩と思える石を岸に積んで平坦地を造成しているのと横穴は大きく防空壕か弾薬庫と思えるからである。東端は穴状地形で西端は一段低くなっている。高射砲の台座か。
平坦地14について必要以上に書いたのは城道が取り付くのは此処より他に見当たらず、上3段の石垣を含む遺構から織豊系城郭と考え、戦争遺跡は避けて通れないものの枡形虎口の存在を想定し得るからである。
(10) 東側斜面の段築
現在の登山道は東麓室本の宝珠寺境内からジグザグに登り、途中左側にミニ霊場と思える石仏が続くが中腹辺りから無くなり、しばらく登ると左側斜面に小さな帯曲輪状の段築が認められる。下方の石仏の存在から石仏の設置場所かもしれないが石仏が一体も無く行く道も無いことから城の防御施設の可能性がある。この様な小さな段築は堂山城(高松市)、城守山(じょうがまりやま)城(東かがわ市・さぬき市)に見られる。
(11) 城道
現在の登山道は前述の宝珠寺境内から平坦地14-1へ辿るが、城道はどうであろうか。城跡を踏査したかぎり、又縄張りにおいては東先端以外に道は認め難い。平坦地14-1を枡形虎口とすれば最も理想的であるが、現実味のあるのは土塁及びキ辺りに若干城遺構を留めると考えて、南東へ延びる尾根より取り付く道である。
(12) 城内の導線
曲輪13から本丸への導線は曲輪13から曲輪12へ上がり北端から曲輪11~10~9~8~7へ、曲輪7からは二方に別れ南隅より曲輪5枡形虎口オへ至り北西隅虎口から枡形虎口イを経て曲輪3へ入り北側から西進、枡形虎口アから本丸に入る。もう一方は北西隅より枡形虎口カへ、曲輪5北西端から小曲輪群へ上がり曲輪3枡形虎口エに至る、又は北西端の石盛が崩れだとすれば石盛の西側小曲輪は曲輪5の一画となりここから曲輪3へ通じる。しかし虎口受状の小空間はあるものの曲輪3に枡形状の掘込みがないことから前記のエへ至るルートをメインの導線と考える。以下前記と同じである。
■3 考察
(1) 縄張り
九十九山城の縄張りは緩斜面で弱く敵が攻め来るであろう東方に多くの曲輪を築いて防御し、本丸にはその方面に対して両側に折れと土塁を構築、岸は高くして石垣を築いて防備する。
その下2段の曲輪には多くの枡形虎口を備え、高い岸に本丸同様強固に石垣を築く。本丸西側には現在3段の曲輪しか存在せず防御は弱そうだが岸には総て石垣を築き本丸、曲輪3には塹壕と思える鉄砲対策を施して防備を強化する。
縄張りは一見自然地形に即して設計されているように見えるが本丸や西側の曲輪を方形にしようとする意図が窺われ、上3段は折れ、塹壕、石垣、枡形虎口ア・イ・エ・オ・カ等(ア以外は掘込式)を構築していることから織豊系城郭の特徴が読み取れ戦国末期の大改修を示唆し生駒氏の支城網支配の一城郭を強く感じる。
(2) 破城について
香川県で破城を受けたと思われる城は引田城、九十九山城、獅子ヶ鼻城(和田城)である。平成22年10月2日破城の痕跡があるかどうか、丸亀市教育委員会の東信男氏と確認調査をした。
まずこの城が総石垣かどうかであるが、筆者は上3段は石垣造りと見ているのは前述の通りである。同行した東氏も曲輪の岸を詳細に歩いた結果多くの石列・石積みが存在し総て繋がることから、同じ見解を示した。図6は東氏の想定図である。
筆者の目では多くの石垣の痕跡があり、本丸の東端部両側の折れから先端切岸までが石垣を剥ぎ取った、曲輪4の石列(根石)と曲輪が自然地形化している状況にあるものの破城と言えるかと言えば分からないと言わざるを得ない。その理由は次の事による。
ア 壊された石垣の残石の量が少ない。
イ 城跡の西端に古い採石場があるので石垣の石を持ち去った可能性が高い。勿論破城された石を持ち去ったのかもしれない。
ウ 曲輪5に石を整理したような石積みがある。
平成22年11月27・28日中四国城郭研究会(題材「破城」)に参加させてもらったが破城についての研究事例は全国的にも少ないようで香川県の破城についても始まったばかりで今後の調査を待つよりない。
■4 おわりに
九十九山城の遺構について調査した結果を詳しく記した。その成果は石列を含む石垣の残欠を多く確認した事である。とは言っても草木の茂る中の観察なので詳細は不明で図中の石積みも石列の位置も正確ではないかも知れないが図示した辺りに存在することは確かであり、同行した石垣の専門家東氏も確認してくれたので強力な証人を得て心強く思っている。
少なくとも曲輪の切岸の草を刈り取ると石垣の詳細がはっきりし、思った以上の成果を得ることは確実であると考えているので是非大々的な調査が行われることを期待する。
【参考文献】
1 香川県教育委員会 2003 『香川県中世城館跡詳細分布調査報告』
2 池田誠 2010 『戦乱の空間9号』
3 松本豊胤編 1979 『日本城郭大系15巻 香川・徳島・高知』 新人物往来社
]]>仕事帰り、たまに立ち寄る大熊酒店。そこの常連さんで、最古参の吉田正さん(常連さんたちからは、“よっさん”との愛称で呼ばれてました)が、病で旅立たれた。
もう引退されていたが、一度、宇多津の復元塩田で塩づくり体験した際にも、手取り足取り教えていただいた。塩水を塩田にまく、「浜かい」の名手で、もんだれ杓をふるってまく塩水が霧のようになり、虹ができていたのが印象的だった。
そして、塩田だけでなく、大熊さんでの角打ちでも、店奥のいつもの指定席で、やさしく迎えてくれていた。吉田さんの雄姿は、研究ノートの「宇多津 角打ち文化宣言」でも紹介しているので、ぜひご覧いただきたい。
私にとって、大熊さんでの角打ちは、仕事疲れを静かに吹き飛ばしてくれる、大切な時間と場所だ。最初はおそるおそる、常連さんたちの片隅に加えてもらい、段々となじみのメンバーの一人になっていく過程が、しみじみ楽しかった。もしも、吉田さんがあの場にいなければ、大熊さんの常連になれたかどうか、あやしいものである。
ありがとう、吉田さん。お世話になりました。
]]>短径最大約15m長径45m位で南が広く北に行くに従って細くなり、中央部に土塁を築く。土塁から北は少し低いので2曲輪とすべきかもしれないが、はっきりした段差がないので本稿では1曲輪とする。
南西隅には小さな石積みがあり虎口を開き枡形イに通じる。南辺には石垣らしき集石があり南辺、東辺エッジには鍵形に曲がる石列J(写真17)が存在する。続いて岸に接して4m×4m位の枡形状の掘り込みオがある。岸には道跡はないが岸の傾斜がやや緩く曲輪7に下りられ、掘り込みも方形でしっかりしているのでオを枡形虎口と認定した。
虎口オの南側は幅5m位帯状に少し低くなって岸には数段の石垣K(写真18)がある。虎口オの北側には石列があり北端は折れ土塁と向き合う。意味不明であるが曲輪を南北に画すためであろうか。
この石列の東側の岸には石垣L(写真19)・M(写真20)が築かれている。中央部に道が通るが最下段まで曲輪の中央を通っているので後世の道と考える。曲輪3岸下の際に棚状の石積みがある(点線部分)。上面を平らにしていないので城遺構とは考え難く此処に石塁を築く必要が無いので崩落したか、後世剥ぎ取った石垣の石を積んで整理したと考える。
土塁から北中央に枡形状の掘込みカがあり岸には道跡様の状況にある。北辺には石垣状になって北西端には崩落した石か石盛がある。
(6) 小曲輪群6
小曲輪が5つ集中する。特別な防御施設はないが道が曲輪5の北辺西寄りから東端の小曲輪(道跡が認められる)へ上がり、道跡は認められないものの上の曲輪へ上がって枡形虎口エに通じると考えられる。西端の曲輪には岸に接して竪堀が落ち、東端は小さな竪堀になっているが余りにも小さいので道跡であろう。曲輪5北西端の石盛が無ければ道は曲輪5西端~曲輪6群小竪堀~曲輪3へと通じ、竪堀は下の曲輪の西端を画し西側からの攻撃に備える。
(7) 曲輪7
南西側から枡形虎口オへ、北西隅から枡形虎口カへ通じ北東隅より曲輪8へ下る。この曲輪は通路を束ねる重要な曲輪で、岸には小さな竪堀がある。
曲輪7・8から下には10郭程構築しており特別な防御施設は無いが岸は比較的高く防御力を有し、岸はしっかりしていて残存度も良い。城道は曲輪9・10・11・12の北辺を通り、踏査時には道跡と思える地形をはっきりと確認できた。現在道は前述したように各曲輪の中央部を貫通し切岸を直登しているので現在の道と判断する。曲輪8・9の岸には石列が認められる。
(8) 曲輪13
この平坦地(曲輪)までを城遺構と考えている。理由は平坦地14の存在から旧地形は不明だがここから急斜面となっていたと思われ、北端が曲輪を画す様な小土塁状になって、向こう側にも2郭認められるからである。ただこの曲輪は他の曲輪と違っていて北寄りに小さな枡形状の掘り込みがあり南側がでこぼこしており、直下に旧軍の施設の存在から旧軍の施設の可能性がある。池田誠氏は砲台座を想定(香川県教育委員会2003の縄張図(図5)参照)している。
]]>
自分のブログに記事をアップできなくなって、早7ヶ月(涙)。なぜできなくなったのか、何をすれば回復するのか。さっぱり分からないのが、アナログ人間の悲しいところ。熱心の読者の方たちから、「最近、全然アップしてないけど・・・・・」と言われるのが、申し訳ないやら、哀しいやら。
なぜ、再開できたかも、よく分からないのですが、何とか再開できそうです。
そして、管理ページを見て、びっくりとともに涙、涙・・・・・・・。
もう、4万4千件以上、閲覧してくださっていたとは・・・・・・
ひたすら感謝、としか申し上げられません。
アップしたいネタ、情報はまだまだありますので、読者の皆様、今後ともよろしくお願いいたします。
]]>というわけでもないのだが、最近、私の周辺では、妙に異界の話が飛び交う。ついさっき、立ち飲みしてきたところでも、常連さんが「妖怪」の話(自説?)を披露したりしていた。
異界に敏感な小中学生は、心霊映像を見て、大騒ぎしている。大騒ぎするくらいなら、見なければ良いのに、なぜ見るのだろうか?そんなことを思う当方は、よほど鈍感なのだろう。
テレビで頻繁に放送される心霊映像を見ていて、気になることがある。
やたら物質感豊かな映像が多いことだ。
人間の眼と同じシステムをもつが、そこには一切の「解釈」が入らない(はずの)映像機器に映る、「霊」の姿が、やたらに質感があるのだ。ということは、「霊」もまた、物質なのだろうか?
もしそうでなければ、物質感あふれる映像は、すべてトリックか、見間違いということになるはずだ。好意的に見れば、見間違いはその映像を見る受け手側の問題なので、あり得る話だ。何せ、どこかで読んだが、人間は3つの点があれば、人の顔と受け止める認識構造をもっているのだから。
しかし、見間違いで片付けられない映像や写真なら、どうなるのか?夏休みの宿題として、少し考えてみたい。
]]>
自分が法隆寺になればよいのです。
失われたものが大きいなら、ならばこそ、それを十分に穴埋めすることはもちろん、その悔いと空虚を逆の力に作用させて、それよりもっとすぐれたものを作る。そう決意すればなんでもない。そしてそれを伝統におしあげたらよいのです。
そのような不逞な気魄にこそ、伝統継承の直流があるのです。むかしの夢によりかかったり、くよくよすることは、現在を侮辱し、おのれを貧困化することにほかならない。
(中略)
私は嘆かない。どころか、むしろけっこうだと思うのです。このほうがいい。今までの登録商標つきの伝統はもうたくさんだし、だれだって面倒くさくて、そっぽを向くにきまっています。戦争と敗北によって、あきらかな断絶がおこなわれ、いい気な伝統主義にピシリと終止符が打たれたとしたら、一時的な空白、教養の低下なんぞ、お安いご用です。
岡本太郎『日本の伝統』(ちくま学芸文庫『岡本太郎の宇宙3 伝統との対決』所収、2011)より。
芸術論として、伝統をどのようにとらえ、継承していくか、ということを法隆寺金堂の焼失(昭和24年)を題材に取り上げ、「自分が法隆寺になればよい」と断ずる岡本太郎。
わが身を含めた創作者の問題に限定しないで、日々の生活を送りながら芸術に接する、ふつうの人々に向けたメッセージとして、「自分が法隆寺になればよい」と言っているのだ。
伝統=過去をどのようにわが身に引き受け、今日を生き、明日を見通すのか。それは、今日を生きる人間の問題であり、伝統を盲信することではない。そうした岡本の主張は、歴史(学)にも通底しているはずである。
]]>(1)本丸
本丸1は20×45mの広さのほぼ長方形で、東端には高さ70cm前後の土塁を構築するともに南北両側を数メートル切り込んで折れを造り横矢を掛ける。
この切り込みは後世の破壊かも知れないが現況では左右同形をしており石垣を剥ぎ取ったような地形でA地点には連続して写真2・3・4の石垣が残っているので城遺構と考えている。段差は約4mと高いが下の曲輪には多くの残石は認められない。
西端には幅5m位の土塁囲みの横堀地形があり岸には石垣C(写真5)や石列が見られる。
『香川県中世城館跡詳細分布調査報告』では堀としたが防御上は岸下に堀を掘ったほうが岸が高くなる(註1)ので防御力が強化されることから池田誠氏が提唱する塹壕(『戦乱の空間』9号)とすべきかもしれない。
南辺は一部石垣B(写真6)があり石列が多く見られ崩れたのか石が散乱する。北辺に石垣・石列は見られないが西端に石列、東端が石垣を剥ぎ取ったような状況にあることから本丸の岸は総て石垣造りだったと想定される。北辺中央部には北に張り出す外枡形虎口アが構築されている。南辺中央にも虎口状地形があるが不整形で急坂なので虎口と断定できない。
中央部は少し高まり井戸と言われる穴があり大石で塞がれている。周囲を石で囲んでいるが不整形でただ並べているだけなので現代のものと思われる。踏査時地元では「刀を埋めたと伝えられる」と言っていたが詳細は不明で、井戸かどうかは掘ってみないと分からない。北側折れの所にも浅い穴がある。
(2) 曲輪2
本丸西端直下からL字に巻く。西側短径8m前後、長径約20m、南側幅5~6m、長さ約40mを計り曲輪3に続く。北側、西側の岸には所々石積みが見られ、南辺の岸には約20m石列が確認できる。
東端は土塁を築き曲輪を狭めて一人しか通れない通路状にし、曲輪3との間に3m×3m位の小さな石囲いの枡形虎口イを構えて曲輪2、3へ入る。曲輪を狭める土塁直下には竪堀と竪土塁ウを構築、枡形虎口の下には虎口受けを設けそこから曲輪5へ通じる通路が設定されている。竪土塁と竪堀の構築は虎口受けから西進するのを妨げ虎口へ向かわせるためである。通路には曲輪3より横矢がかかり岸には高さ1m位の城内で一番高い石垣D(写真7)が築かれ残存度も極めて良い。
石垣の東端から石列(写真8)が一部途切れるものの約25m延び先端は「く」の字に曲がる石塁E(写真9)のようになって、その下には石列と竪堀もあり、登り石垣があった可能性を有し、曲輪2東端から石塁Eまでコンパクトながら巧妙な技巧的設計である。
(3) 曲輪3
曲輪3は東端から西端まで三方を巡る。
東端は幅10数mと広く南西隅に枡形虎口イを築き、直ぐ東側にはV字の石列がある。この石列の意味は不明である。東側岸の曲輪5との比高は5~6mと高く、滑り落ちたと思える石垣F(写真10)がありその他にも数段積んだ石垣(写真11・12)が多く存在する。
東側中央に現在道が取り付き外枡形状小空間があるが不整形なので後世の道と考え、北隅に方形の枡形虎口状地形エがあり道が下の小曲輪へ通じ岸に石積みがあるのでエが本来の枡形虎口と考えている。西側に接して小さな台状の石盛G(写真13)があり石が散乱しているので石垣造りの枡形だったか。
この辺りの岸には数段の石垣H-1(写真14)や石垣H-2(写真15)が築かれ、石盛りGの直ぐ西に下の曲輪群に下りる道がある。西進すると浅い堀に突き当たり直進を妨げ少し進むと本丸枡形虎口アへ通じる道があり、幅5m前後の帯曲輪となって約50m続く。中央部に折れを伴い岸には石列が認められ石垣を示唆する。西寄りには竪堀が穿たれている。西端は幅6m前後、長さ20m位で南側半分には土塁を築き堀状になっている。此処に堀を穿つ必要はなく又浅いので本丸西端の堀状と同様塹壕機能を持たせたものと思われる。岸には石列が見られ南側は二重になっている。
曲輪2と3には段差が無く曲輪3西端から曲輪2へ、上へ向かって渦巻状に本丸を囲む。本丸を帯曲輪が完全に巻くのは櫛梨山城(善通寺市・琴平町)・海崎城(旧詫間町)に見える。
(4) 曲輪4
最西端の曲輪である。幅5m長さ10m余りの長方形で重要視していたと思われ、岸は総てしっかりした石垣で固めていたようだ。現在石垣Iは1段(写真16)で曲輪面は自然地形の様に見えるが最上端は1m位高く石垣を破壊したために崩れたと思われる。
曲輪4の西側は平坦で大石が並びその先は古い採石場と思われ垂直な崖となっていて旧状は分からないが平坦なことから曲輪だった可能性がある。
【註】1 勝賀城の本丸土塁下に2箇所見られる。 ]]>松田英治
■1 起稿にあたって
山城に興味を持ったのは昭和54年1月高松市教育委員会による勝賀城跡の調査が行われ、その調査に少しではあるが参加したことに始まる。
当時は興味を持ったといっても山城歩きで縄張図も見取り図にすぎず、踏査が重なるにつれて山城歩きの楽しさ、面白さが募っていった。 その頃中世城郭研究会メンバー池田誠氏に出会い青焼きではあるが城の縄張図を手にするようになった。折りしも研究誌『中世城郭研究』・『図説中世城郭辞典』が発刊され多くの縄張図を目にするようになった。その縄張図を見て虎口、折れ、横堀等各パーツに魅せられ山城踏査にのめり込んでいった。
平成9年度から14年度にかけて香川県教育委員会によって中世城館跡詳細分布調査が行われ、調査報告書(香川県教育委員会2003)が平成15年3月に刊行された。 筆者は過去の経験を生かし多くの城調査に関わる縄張図や原稿を執筆したが、調査は仕事の関係で土・日に限られ城を緻密に調査することが出来ず紙数の関係もあって詳述出来なかった。 その後も追加調査を行い多くの城遺構を確認した。本稿はその成果を記録するものである(図1は再調査の中世山城)。
図1 再調査の中世山城分布図
■2 九十九山城(つくもやまじょう)
九十九山城は観音寺市室本町江甫草山(九十九山)に所在する。
立地は『日本城郭大系15』の表現を借りれば「白砂青松(はくしゃせいしょう)で知られる有明浜の北端、海に半分ほど突き出た江甫山(九十九山)は、標高153mを測り、中腹から山頂部にかけてほぼ円錐形を呈する独立した山(写真1)である。燧灘に面する山の西側は切り立った岩場、南・北側も登攀の術がないほどの急斜面、東麓のみが丘陵状に延びて七宝山系の稲荷山西南麓の低い鞍部に接する。その鞍部に、海岸沿いで仁尾町へ抜ける県道(仁尾街道)が通る。いわば、江甫山はこの方面の関門ともいうべき位置にあり、北側足下の室本港はもちろん、一帯の海岸線を充分掌握できる立地である。なお、東南方に開けた平野部や燧灘海域への展望も良好であることはいうまでもない」とある。
「山の西側は切り立った岩場、南・北側も登攀の術がない」は少しオーバーと思うが城周辺の状況(図2)をうまく表現しているのでこれに従う。城主細川氏については落城の様子の言い伝えはあるものの仔細はほとんど不明である。
九十九山城周辺地形図(香川県教育委員会2003に一部加筆)
城(上3段)は総石垣だったと思われ石垣の残欠が随所に残り、頂部の本丸を中心に東西に延びる尾根上に階段状の曲輪群が構築されている。山麓には港を構え、七宝山から九十九山を囲むように苧扱(うこく)川が流れ総構えを呈し、外方の財田川とともに二重の防御線となっている。城の縄張りは図3で解説は図4拡大図で行う。
]]>
戦国時代、讃岐国からはついに戦国大名は誕生しなかった。畿内に近く、室町幕府の重臣・細川氏の中心的な領国であり、細川氏没落後は三好氏の支配を受けていたためである。しかし、細川・三好氏を支える小領主たちが割拠しており、信長・秀吉・毛利・長宗我部とも関わりをもちつつ、複雑な政治状況が作り出されていた。中世特に戦国期の山城が多いのは、そうした背景があるからだとも思われる。
10年ほど前、香川の中世山城の調査が行われ、各城の具体的な構成(縄張り)が明らかにされた。その成果は、香川県教育委員会の出した報告書『香川県中世城館詳細分布調査報告』(2003年)にまとめられている。県内の図書館には置かれているはずなので、ぜひご覧いただきたい。
調査にあたり、重要な役割を果たしたのが、県内各地の城郭研究者である。彼らが、草木の生い茂る山に分け入り、地形や遺構をにらみ、詳細な図(縄張り図)を作成した。城郭研究者には、行政で埋蔵文化財調査を担当する人もいるが、自由な発想と厳しい観察眼をもつ在野の研究者たちもおられる。在野の研究者こそ、中世の城が文化財として保護される前から、城跡を地域の貴重な文化遺産と考え、保護と価値付けに力を尽くしてきた人々である。
松田英治さんは、香川を代表する在野の城郭研究者であり、香川の山城を歩きつくしている方だ。松田さんのすごいところは、納得いくまで何度も山に入り、地形の起伏に山城の痕跡を読み取ろうとする「執念」にある。
松田さんが求めるのは、あくまでも「事実」である。その山城のつくりがどのようになっているのか、こつこつと、また慎重に明らかにしようとする。だから、「おらが町の城自慢」にはならない。ありえないような大城郭を夢想したりはしないのだ。「事実」が知りたい。それが松田さんの原動力になっているのかもしれない。
そんな松田さんは最近、長年の調査をまとめる作業に没頭されている。自分が知り得たことや、考えたことを、研究者や多くの人々に知ってほしい。そうすることで、地域に埋もれた城跡の価値を知ってもらい、後世に伝えることができるのではないか。そうお考えになっているのだ。
そこでこのコーナーでは、松田さんの諒解をいただき、その成果の一部をご紹介したい。行間から松田さんの観察力や思いを読み取っていただければ幸いである。また、豊富な写真や図に導かれ、冬枯れの山城の世界を探索し、中世山城のもつ迫力を体感してみることをお勧めする。
]]>大変寒くなって参りました。其の後元気で御執鞭の事と存じます。北満の当地では、もう冬ですね。枯木に雪の花が咲くのも時々見られます。洗濯物が凍り付いて乾かない時もあって、閉口します。でも未だ未だ暖い方で、零下四〇余度の酷寒も間近に迫って居ります。でも元気一杯張り切って居りますから、御休心下さい。嬉しい御便り頂いて、楽しく拝見いたしました。殊に内地の薫を一杯含んだ菊の押花は殊の外嬉しく、戦友にもその薫を吸い込ませてやりました。有難う。内地は秋酣の候で、全山紅葉で見事な事でせうね。稲刈りも■って居るらしく、農村は多忙な毎日を送って居る事でせう。小亀君とも別れて了ったがが、外出先等で良く一緒になる。そして■る■内地の話に花を咲かす。本当に良い戦友です。世話になった事もあるお父様に会ったら、宜敷伝へて置いて下さいよ。
時々暇の折には、陶に帰ってあげて下さいね。
今日も○○[戦後の書き込みでは、「格納庫」]で慰問映画があるとかで、皆んな喜んで居ります。今日はこれにて失礼します。
■■様に宜敷御伝へ下さい。元気でね。
十一月八日
]]>ここで改めてニューヨーク世界博覧会日本館を見てみると、外壁を石積みで埋め尽くした圧倒的なボリュームと、開口部を構成するガラス窓と打ち放しコンクリートの組み合わせは、瀬戸内海歴史民俗資料館を彷彿とさせるものがあるように思える。
山本も「屋島陸上競技場」(昭和28年、香川県建築課)で石壁に取り組んでいるが、それは限定的に壁に収まる石貼り風で、立ち上がるようなマッス(量塊)を感じさせるものではなく、何かの飛躍を経て歴民に至ると見た方が自然である。
もちろん既に述べたように、前川にとっての石壁という表現は、戦時下での忠霊塔で試みられ、日本館で再度浮上する一時的な試みであったことから、前川が石壁というテーマに明確な解を提示し、それが歴民に直接的な影響を与えた、と見通すことはできない。しかし石壁によるマッスの表現という前川の試みが、「城の眼」建設あるいは事実上の施主である岡田氏に関わる過程で山本の内面に刻まれた可能性はあるのではなかろうか。
従来、歴民の設計案を山本が固めるのに大きな影響を与えたのは、山本自身が書き残しているようにルイス・カーンのインドでの建築とされている。地元の煉瓦で造られていく建築を見た山本は、そこに強烈な「土着的なもの」を感じたのである。そして瀬戸内海に面した土着的な表現として、基礎から生じた石という素材に着目した、とされている。
そうであったとしても、石壁という表現に至った作者の内面の変化(「土着性」への視点)と、背景をなす時代性(中央と地方という場、あるいは「日本的」とその中での「地域主義」という問題の立て方による年代差はあるが)ということに着目すると、1960年代の前川と1970年代の山本を取り巻く諸条件は、かなり似たものがあったように見えることを問題にしたい。前川は世界博覧会という仮設建築による試行に終わった(岡田氏の話では、博覧会終了後、移築されたため仮設ではなくなったが)けれども、「地域主義」により多くの軸足を置いた山本は「高度経済成長期末期の混乱から、うまく抜け出てさわやかな印象を受ける」(神代1985)建築に到達したのであろう。
前川と山本の直接的な繋がりがなければなおさら、踏み込み方の違いがあっても個別に到達した表現の共通性が注目されよう。また、彼らを間接的に繋いだ「城の眼」という場で交錯する地下水脈のような人脈についても、もう少し精査していく必要を感じるのである。
本稿の作成にあたり、岡田賢氏の多大な御教示があったことを明記しておく。また、鈴木清一氏(香川県土木部工事検査室)・橋本功氏(前川建築設計事務所所長)・喫茶城の眼から、有益なコメントや資料の提供があった。さらに『建築雑誌』のバックナンバーは日本建築学会のHPで内容を閲覧可能であり、大いに助けられた。以上の方々と機関に深い感謝の意を表したい。
参考文献(年代順)
前川國男1942「覚え書-建築の傳統と創造について」『建築雑誌』昭和17年12月号
前川國男1965「真の日本館を望む」『国際建築』Vol.32No.2
奥平耕造1965「ニューヨーク世界博・日本館」『国際建築』Vol.32No.2
流政之1987「私の履歴書」(「日本経済新聞」所収)
宮内嘉久1990「年譜ノート-前川國男小史-」『前川國男作品集-建築の方法』美術出版社
藤森照信1993『日本の近代建築(下)-大正・昭和編』岩波書店
松隈 洋2005「課題としてのテクニカル・アプローチ-1950年代前半期の可能性をめぐって」『近代建築を記憶する』建築資料研究社
生誕100年・前川建築展実行委員会監修2006『建築家前川國男の仕事』美術出版社
松隈 洋編2006『前川國男 現代との対話』六燿社
佐藤竜馬2006「治山と漁港~考古学からみた昭和戦前・戦中期の農村と漁村~」(中四国史学地理学協会発表資料)
]]>3-1.岡田賢氏と石材
ニューヨーク世界博日本館あるいは「城の眼」に至る施工者としての岡田氏の経歴は、戦時体制下での石材加工に始まる。当時、父親の仕事を手伝いつつ戦没者の墓石を作る傍ら、戦闘機を製造していた三菱重工水島工業所の「石定盤」の試作に成功した。石定盤は部品規格の計測台であり、100分の1㎜程度の精度が要求される平坦面を作り出す必要があり、全国の石材業者に試作を依頼したものの、岡田石材工業のみが成功したというのである。以後、多い時で職工400人余りを動員して石定盤を製作したという。ここに表れた石材加工の腕の確かさが、戦後、ブランドとしての庵治石の隆盛をもたらす一因となったという。
戦後、広島市街地の都市計画道「100m街路」の建設に参加し、復興が進む中で建築の施工にも関わりをもつようになる。既述のように前川國男設計の岡山県庁舎(昭和32年)はその早い例であるが、岡田氏が思い出深く語るのは香川県庁舎の建設(昭和33年、現・香川県庁舎東館)である。1階ホールとピロティの床石(敷石)を石工たちと加工し、玄関受付の机石と中庭の「人」形石を求めて丁場を歩き廻ったという。丹下研究室が石にこだわっていたというのは、戦後の庁舎建築に新たなスタイルをもたらした香川県庁舎のあり方を示唆する面白い話である。
香川県庁舎は周知のように、外部と連続的な開放的な空間を生み出し、民主主義に相応しく県民に開かれた役所庁舎のイメージを提起し、以後の庁舎建築のモデル(規範)となったという。そのようなビルディング・タイプにとって、県民へ最初に相対する受付や、自由に人々が散策・休憩できる中庭は、開かれた庁舎を象徴的に示すパーツであり、そこに置かれる石造物への丹下研究室のこだわりは極めて象徴的と見ることができよう。
同時にこれらの石が、瀬戸内海-香川という地域性や風土を表す素材として効果的に用いられていることもうかがえる。中庭では瀬戸内海や栗林公園・屋島といった香川(高松)の風景が表現されており直接的であるが、受付では切り出された庵治石の「自然の」湾曲がそのまま利用されており、石材の自然面を活かすという形での地域性の表現が見られる。ちなみに中庭は当初は設計に含まれていなかったが、金子知事の依頼により丹下事務所のスタッフが模型を作成、丹下のチェック後に基本図面を作成、さらに現場で金子や山本と相談の上、決定したという。すなわち、丹下独自の世界観としてではなく、金子・山本という地域性を担う関係者の世界観も込められた上で、岡田氏という施工者が手がけているのである。
高松一の宮団地(昭和34年)も丹下の設計によるものだが、そこでは団地を取り巻く塀に現場から出た砂岩玉石が練積みされており、独特の表情が与えられている。この石塀も岡田氏が施工を担当したという。
細密精度の製品から彫刻的な施工まで、岡田氏の石に対する関わり方は多彩である。石材の種類も庵治石(花崗岩)にこだわらず、求められるイメージに適う石材を世界規模で調達・施工している。そこには施工者としての自負は勿論であるが、単なる施工者にとどまらない側面もうかがえるのである。
3-2.山本忠司に見る素材の問題~1970年代の2作品から~
1970-80年代の山本忠司は、「風土」や「地域」をキーワードにした多くの言説を残している。それは「瀬戸内海歴史民俗資料館」(昭和48年、以下「歴民」)・「大的場健康体育センター」(昭和52年、以下「大的場」)という実作をめぐって展開された。具体的には歴民では外壁の安山岩積みが、大的場では内壁の土管片が「風土」や「地域」を表す素材として取り上げられたのである。
山本の下で歴民を担当した鈴木清一氏(香川県土木部工事検査室)によると、紆余曲折しながらも石積み外壁は当初設計からあったといい、事前の地質調査により現場での石材調達を考えていたという。石積みは、当初は面を揃えて施工されていたが、山本の意見により表面の陰影が強調されるように面に出入りをつけたという。石壁の各所に大振りな石をはめ込むことでもアクセントが付けられており、石壁の表現としては高松市女木島の「オオテ」(石積みの暴風壁)をイメージしていたという。
大的場では、当初はレンガタイル貼りの内壁が考えられていたが、現場より5km西の神在川窪(周辺に土管工場が集中)の海岸に打ち捨てられ、波に洗われ摩滅した陶片が玄関ホール周辺の内壁に貼られていた。これには海水浴場がある海辺の主題を、健康増進を目的とした同施設の内部へと持ち込むことが意図されていた。大きなガラス窓や間仕切りが、外界との連続性をより強調する効果を生み出す。
山本にとって石や陶片は、建築と外界とを有機的に繋ぐための素材であった。これらの素材と建築プランにより外界との連続性や一体化が表現されていることになるが、それはいみじくも前川國男が有機的で周囲に溶け込む建築への方向を明確にした時期と完全に一致する。そういえば、山本の歴民と前川の岡山美術館(現・林原美術館)は、外壁の素材の違いはあっても、意外に近い雰囲気を感じさせるように筆者には思える。とはいえ鈴木氏ら当事者には、前川の建築とのイメージの接近については意識されておらず、事後的に大枠で共通する傾向が指摘できる、といえるのかもしれない。
3-3.土木構造物に見る「地域性」~1930-50年代の構造物と地域の素材~
ところで、当事者がどのように意識していたかを問わなければ、近代建造物の「地域性」はむしろ土木構造物に先行的に見出すことができる。最も典型的に表れたのが、1930-40年代(昭和戦前期)の砂防堰堤であり、香川県では砂岩川原石をコンクリート練積みにした「財田川類型」と、花崗岩切石を空積みした「鴨部川類型」の存在を指摘できる(佐藤2006)。いずれもその地域で入手できる石材とその加工技術の応用が認められるという点で、近世以来の流れを汲む「土着性」が指摘できる建造物である。ことに財田川類型は、戦後の昭和20~30年代にかけて堰堤背後など通常眼に付かない箇所でコンクリート打ち放しを露わにするが、依然として石を用いている点で、本来の構造(石積み)から遊離した表現が認められる(考古学でいう「痕跡器官」概念)。
砂防堰堤に見られる「土着性」は、本来は手近に施工素材を入手・利用するという発想が明確であり、それは工事費の大半を地元住民への賃金に充てることを旨とした昭和初期の不況対策を背景としていた(農漁村匡救事業がその典型)。戦後、香川県庁舎や一の宮住宅と同じ時期にコンクリート構造へと転換した後も、機能ではなく意匠として石貼りが残されたのであるが、そこには「地域性」や「土着性」といった言説を見ることは困難である。これは他地域の砂防堰堤についても同様である。
このように見てくると、「風土」や「地域性」と素材という問題機制は、同時代の当事者の意識と後付け的な「歴史」という視点では、微妙に(かなりとすべきか)喰い違っていることが分かる。とりあえず問題にしたいのは当事者の意識ではあるが、それは同時代の当事者の意識には上らない土木構造物も含めた、より広い範疇の「土着性」の中からすくい取られ、限定されていくように、結果的には見受けられるのである。
]]>既述したように、高松市の美術館通りに面して佇む「城の眼」は、昭和37年(1962)に開店した喫茶店である。通りをはさんで日本銀行高松支店があり(現在は高松市美術館)、証券会社や民間銀行も集中するこの一角は、高松を特徴付ける「支店経済」の中核的な役割を担った地域であり、東京や関西の文化を受け容れ、また逆にそれらの地域へ高松の文化を発信できる位置にあった。現に「城の眼」の常連として福井日銀総裁(当時は高松支店長)がおり、また実作では高松とは無縁であった建築家・磯崎新(丹下の弟子)や音楽家・武満徹などの来訪もあったといい、「城の眼」という「場」あるいは「空間」のもつ意味がよく表れている。
開店当時のリーフレットを見ると、「建築設計:山本忠司、ファサード・室内デザイン:田中充秋、石彫レリーフ:岡田石材石彫研究室、音楽デザイン:秋山邦晴、音響技術:奥山重之助」とあり、「各分野で活躍されている芸術家・専門家のかたがたのご協力をえて、喫茶“城の眼”を開店いたすことになりました。当店は郷土の石を素材として、あたらしい角度から、これを生かしてデザインしていたゞいたものです。(中略)モダン・デザインの空間のなかでしずかな憩いの時間を・・・・・・」と紹介されている。当時は高松には本格的な喫茶店は珍しく、上記有名人も含めて多くの客で賑わったという。
今回、岡田氏から開店に至る経緯を聞き取ることができたが、それによると「城の眼」はニューヨーク世界博覧会日本館(1号館)の石壁の試作という意味があったという。これは、少なくとも文章化された「事実」としては周知されておらず、重要な知見といえる。具体的には店の奥の石壁(内壁)が、日本館の石壁に使用されたものと同一の石材であり、その試作として積まれたというのである。確かに開店した時期は日本館建設に向けて原石の採取が始まった頃であり、タイミング的には試作とするに相応しい。ただし、加工面に施された流政之の彫刻はばらばらに組まれており、石積みという施工面での仕上がりを確かめるのが目的であったようである。同時に前川事務所や流政之との打ち合わせの場としても使われた。
ところで岡田氏の聞き取りと設計・施工の役割分担から、「城の眼」立ち上げに主導的な役割を果たしたのは、岡田氏本人であることが分かる。音楽デザインの秋山邦晴は、音楽の着想を得るために岡田氏を訪ねていたことが「城の眼」に関わるようになった直接の契機であり、このことが世界初(おそらく現在でも世界唯一)の石のスピーカー・ボックス誕生へと結び付いた。
田中(空)充秋は、流政之が岡田氏へ紹介したようであり、この時に岡田氏に届けられた田中の履歴書がある。また山本忠司は当時、香川県土木部建築課の職員であったが、「城の眼」設計には県職員として関わっていない。岡田氏と山本は旧制中学時代からの知り合いであり、そちらの繋がりから設計に関わるようになったのである。とはいえ、ファサードのPC(プレキャスト)コンクリートパネルとそのデザイン(ミュージカル「ウェストサイドストーリー」のイメージと城郭の銃眼デザインの組み合わせ)は、室内とともに田中充秋のデザインであることから、山本の果たした役割は通常の建築設計よりも限定されたものである可能性がある(共同作業の比率が高いというべきか)。
このように喫茶「城の眼」は、岡田賢氏という主体を介して「各分野で活躍されている芸術家・専門家」が結び付けられ、実現に至っており、そこにはニューヨーク世界博覧会日本館とは異なる空間が生み出されている。日本館の試作に始まるが、前川が「有機的」な回路への期待を込めたと思われる石壁は内化され、外壁にニューヨークの世界を表す「ウェストサイドストーリー」が表現されているところが興味深い。そこには前川が意図したニューヨークにおける「日本」という演出の主題が分かり易い形で転倒(日本での「ニューヨーク」)され、「モダン・デザインの空間」が生み出されているからである。
]]>少し前述したが、前川國男にとって1960年代は、彼の作風すなわち建築観が大きく転換した時期であった。1920年代後半にモダニズムの巨匠であるル・コルビュジエに学んだ前川は、戦後、復興へと進む工業化の中で「基礎的な技術の開発と、その共有化への努力」として「「純ラーメン構造(ドミノ)」+マンテル(建物の外皮)」の追求、というテーマ」を掲げ、「日本相互銀行本店」(昭和27年:1952)・「MIDOビル」(昭和29年)・「神奈川県立図書館・音楽堂」(昭和29年)・「岡山県庁舎」(昭和32年)・「日本住宅公団晴海高層アパート」(昭和33年)を生み出していく。このテーマは、コルビュジエの提唱した「近代建築の5原則」の「自由な平面」と「自由な立面」に通ずるものであり、1950年代前半を中心としたこれらの作品は、近代建築の理念を具体化し、日本に定着させる試み(テクニカル・アプローチ)と評価されている(松隈2005)。
しかし早くも1950年代後半には、前川自身がテクニカル・アプローチに対して疑問を抱き始めるようになる。その疑問は、工業製品からなるこれらの建築が時間の経過に耐えることができるのか、もっと言えば古びつつ美しい「廃墟」と化し、街に溶け込むような存在になり得るのか、というところにあった。そしてその答えとして、構造とマンテルに表れた無機質な経済性・合理性の追求から、次第に空間やディテールの洗練、あるいは年月に耐える質感をもつ素材の選択へという方向性が打ち出されていく。この転換は、「岡山美術館」(現・林原美術館、昭和38年:1963)に始まり、「埼玉県立博物館」(昭和46年:1971)・「熊本県立美術館」(昭和 52年:1977)で明確にその姿を現したのである。
転換後のマンテルとしてよく知られるのが、「打ち込みタイル」である。これは、壁体構築時に型枠面にタイルをセットし、背後にコンクリートを流し込む工法で、壁体構築後の仕上げ段階で表面にタイルを貼り付けていた従来の工法とは異なるものである。日本相互銀行の建築には前川による様々な試みがなされたが、打ち込みタイル工法も「砂町支店」(昭和36年)での施工を経た後、「埼玉会館」(昭和41年)で全面的に採用された。この前後の時期には、「京都会館」(昭和35年)で中空レンガ・ブリック、「岡山美術館」で焼過レンガによる組積工法が適用されており、これらも打ち込みタイルへと収斂していく試みと評価されている(松隈2005)。
このような前川の背景を踏まえ、昭和37~39年に施工されたニューヨーク世界博覧会日本館(1号館)の石壁を眺める時、そこには煉瓦→打ち込みタイルとは別の、マンテルへの模索が読み取れる。その工法は、コンクリート壁の外側に積み上げており、壁構造と一体化していない後張工法という点で打ち込みタイルとは異なる。いわば外表(皮膜)としての表現に留まるのであるが、石積みの方が通常のタイル張り工法よりも劣化・剥落の危険性が少ない。近視眼的には、この点に石壁の可能性を考えていたのではないか、とも思える。
ところで、実現した前川の作品を見ると、石積み外壁による量塊感あふれる建築は、この日本館にほぼ限定されると見てよい。このことが日本館を前川作品の中で孤立的な存在にしているのだが、実現しなかったコンペ案を含めると、意外にも戦時中にその先行事例を見出すことができる。
忠霊塔コンペ応募案第1種(昭和14年:1939)と東京市忠霊塔コンペ応募案(昭和17年:1942)は、ともに台形立面で、圧倒的なヴォリュームをもつ石積み外壁が特徴である。特に東京市忠霊塔案は、「塔ではなく、石を積んだ奥津城をつくろうと話した」といい、城郭の石垣がモチーフにされたという(生誕100年・前川建築展実行委員会監修2006)。戦没者の霊を慰め、顕彰することを目的とした忠霊塔という施設に対して前川が抱いたイメージが、城郭石垣であったということは興味深い。
同じ年に前川が書いた「覚え書-建築の傳統と創造について」には、当時の「国民的建築」に関する考えの一端が窺える(前川1942)。そこでは、「我等が傳統を重視するのは、現在に於ける新しき時代の創造的行為者としての立場に立つ限り、(中略)傳統の中にその歴史的地盤を掴みとらねばならず、我々の理念はかくの如き表現的環境を疎外して出生の術を知らぬからである」が、「単なる様式の模写的復興に満足するものは抽象的な伝統主義に過ぎず真に創造への傳統の意味を理解するものとはいへない」としており、明治以来続く洋風の歴史主義建築を否定し、その延長にある所謂「帝冠様式」や、それとは一応対極にあるバウハウス的なモダニズムをも批判している。
前川自身、この覚え書の中で望ましい「国民建築」の具体像を示すことはなかったが、前後の実作・コンペ案から見て、「ダイナミズムや、自然素材の肌ざわりによる実在感」を求めるデザインの体質をもつコルビュジエ的なモダニズム(藤森1993)に、その解を求めていた可能性が高い。あくまで比喩としてではあるが、「覚え書」には素材としての石に関する記述が見られる。「一塊の石材はも早や単なる自然科学的な石でもなく単なる素材的自然としてでもなく、更に表現的自然として『建築へ働きかける声なき意志』として已に作られたる者の性格を備へてゐる」。素材自身がその存在を主張するような伝統的表現として、モニュメントとしての城郭石垣というモチーフが選ばれたのではなかろうか。
ところが同年、前川らが審査員を務めた大東亜建設記念造営計画において1等当選は果たした、丹下健三による大東亜建設忠霊神域計画では、コンクリート打ち放しによる、伊勢神宮を通じた家形埴輪への接近が図られている。
ここに、外壁の表現に対する前川と丹下の根源的な志向の違いを見出すことができる。すなわち、素材は様々だが建築の構造とは別の形(後張り工法等)に依拠してマンテルというテーマを掲げた前川と、構造部分の連続的な外皮という形でコンクリート打ち放しを前面に掲げた丹下、という対照的な志向である。この志向は、戦後の1950年代いっぱいまで続き、前川がほぼ全面コンクリート打ち放しの外壁に取り組むのは、世田谷区民公会堂(昭和34年:1959)から弘前市民会館(昭和39年:1964)までの僅か5年間である。そして重複するが、前川が再びマンテルへと取り組む1960年代前半に日本館が位置しているのである。
世界博覧会日本館という場において、「日本」という枠組みの提示が求められた時、前川が強く意識したのは工業ではなく、それにより蝕まれる日本の風土であった(前川1965)。その問題意識は、同時期に前川自身が抱えていた問題機制-工業製品ではない新たなマンテルへの模索-と完全に一致する。一方は戦争という外に対する創造的伝統、そしてもう一方は工業化という内に対する風土の問題としてではあるが、戦時中と1960年代前半の前川を巡る背景に重なる部分があると見るのは、あながち的外れな見方ではなかろう。そのような意味で、石積み外壁という建築表現は、伝統・風土に対する前川の意識と、本質的にもっていたマンテルへの志向の原点を現すものなのではないか。同時に日本館の石壁に、流政之と庵治・石匠塾による芸術的かつ職人的な表情が加えられたのは、日本の工業化社会に対する危惧が含意されているようにも見受けられる。
]]>そうした資料の内容については、別の機会、別の場で公表できれば、と考えているところだが、資料を読み込むことは、なかなか大変な作業であることを痛感している。
その資料を通じて、書き残した人や、その人が置かれた当時の社会が、少しずつ、見えてくる時がある。しかし、そうするためには、とにかく一定時間、その資料の中にはまり込んでいく必要がある。
資料にはまり込む時の感覚は、光の届かない深い海の底へ、意識を集中して素潜りするかのようである。ひたすら、海の底=資料の語るところを凝視し続ける。周りには誰もいない。ただひたすら、自分の意識を研ぎ澄まし、集中させていく。そんな感じだ。自分の能力は知れているから、なおさら資料へ沈潜する努力は欠かせない。
ただ、それを何日も続けていると、周りは一切視界に入らなくなり、自分の中だけで意識が完結するようになる。自分の外に意識を拡げようとしても、潜水病のようにクラクラする。
素潜りもほどほどに、ということなのか。しかしほどほどでは、資料へ沈潜することはできないのだが。
]]>デジタルの機器の調子が悪い、というは何か「想定外」のように思えるが、機器を取り扱い、入力する主体が人間というアナログな存在である限り、アナログ側の動き一つで、デジタルはどうにでもなる。
デジタル機器内部は、デジタルな世界なのだろうが、入力するアナログ存在が機器とかかわるためには、インプットの部分はアナログにならざるを得ない。キーボードというアナログパーツに。その入力された情報を処理するのは、まったくのデジタルだが、回路というモノそのものは、工場で組み立てられた全くのアナログ素材である。
デジタルが存在するために、どこまでもアナログという主体や素材が必要になる。
主体である人間の頭の中は、電気信号でやりとりされているそうだから、デジタルだ。しかし、それをアウトプットするのは、手や足や声帯というアナログ機器だ。
ということは、人間→デジタル機器→人間、という情報の交換は、アナログ機器という交換パーツなしには成り立たないことになる。
わがPC殿も、「主体」である人間の乱暴なキーボード操作(叩き)によって、乱調を余儀なくされている、というところか。
あまり世間と関係ある話ではないが、「地デジ化まで、あと何日」というくちやかましいコールが繰り返されると、「誰がデジタルを動かしてんねん」と毒つきたくなる。
主体としてのアナログと、手段としてのデジタル。それぞれの持ち分をわきまえてこそ、その仕組みがうまくはたらく。わがPC殿の、健闘を祈る。
]]>2-1.日本館の概要
ニューヨーク世界博覧会は、昭和39年(1964)4月から翌年3月まで、ニューヨーク市で開催された。日本館は「博覧会全体のほぼ中央国際地区の国連街およびアイゼンハワー散歩道と名ず(ママ)けられた二つの道路が交差する角にあってオーストラリア館と向かい合ってい」たという(岡田石材工業作成アルバムより)。日本館は3棟から構成され、このうち1・2号館の建築設計を前川國男建築設計事務所、構造設計を前川のパートナーである横山建築構造設計事務所、彫刻石組の設計を流政之が担当することになった。
その特徴は、①正方形プランの1号館と「コ」の字形プランの2号館が接しており、やや単調ながら雁行・周回する導線であること、②1号館の外壁のほとんどが彫刻の施された石積みで、周囲が池に縁取られていること、③1・2号館の間に舞台を伴う池と石庭からなる中庭があること、である。いずれも1960年代を通じて次第に明らかになってきた、前川の新たな作風である。
特に②は、城壁と堀を連想させるような外観であり、前川が手がけたコンクリート打ち放しのブリュッセル万国博日本館(昭和33年:1958)から大きく変化した要素であることが分かる。彫刻の施された石壁は大きな衝撃を与えたようで、「ストーン・クレイジー」と呼ばれたという。
2-2.石彫石壁の施工
流政之が設計した石彫石壁は、庵治(高松市庵治町)の岡田石材工業によって施工された。石材には、萩(山口県)と大根島(島根県)産の玄武岩が用いられ、昭和37年(1962)9月に採取され始めた原石は庵治へと運ばれた。昭和38年3月からは、工場の敷地に並べられた石材に流が下絵を描き込み、それを職工たちが彫った後で番号が付けられ、神戸港からニューヨークへと送られた。石材の総数は、約3,000個で約550tに及ぶ。流を含めた職工7名は昭和38年9月1日に羽田を出発し、現地雇用の作業員9名とともに、翌年4月まで現場での石積み作業を進めた。
流は昭和35年(1960)、庵治で彫刻を始めており、昭和37年には太田秀雄ら若い職人たちと「石匠塾」を結成した。翌年、岡田石材工業の職工としてニューヨークへ派遣された7名は、この石匠塾のメンバーである。この前後の時期、流はアメリカで個展を初めて開催し、家具などのデザインの視点に立った「讃岐民具連」を結成してジョージ・ナカシマを招くなど、活発な活動を展開して彫刻家としての地位を確立するようになる(流1987)。石壁「ストーン・クレイジー」は、そのような流の動向を象徴する仕事であるが、結果として建築家・前川國男と石工・岡田賢氏がこの時期の流を支える存在といえる。
前川國男が流を担当に据えたのは、流の父親・中川小十郎と前川國男との人脈(中川が創立した立命館高等工業学校を前川が設計、昭和14年竣工)があったからだという(岡田氏の証言)。また、前川と岡田氏との関係は、確認できる作品で見ると岡山県庁舎(昭和32年:1957)に遡る。さらに流は庵治で活動を始めた当初、岡田氏を頼っている(岡田氏の証言)。つまり、それまで個別の繋がりであった中川(流)-前川、前川-岡田氏、岡田氏-流という繋がりが、日本館1号館の設計・建築を契機に結び付き、3者にそれぞれ多大な影響を残したと見ることができる。
※写真提供 喫茶「城の眼」
]]>佐藤 竜馬
■1 喫茶「城の眼」から垣間見えた「地下水脈」
そこは、居心地の良さが感じられる空間のように思えた。新陳代謝が進む街とは異質な、モダンだが懐かしいような良質な時間と空間。それが喫茶「城の眼」の第一印象である。
喫茶「城の眼」は、香川県土木部建築課に所属し、後に独立した山本忠司(1923~98)の初期の作品として知られる建築で、昭和37年(1962)に竣工した。山本は1970~80年代には、瀬戸内海という「地域性」や「風土」を語り、表現した建築家として知られており、県庁時代に手掛けた「瀬戸内海歴史民俗資料館」(1974)や、独立後に手掛けた「瀬戸大橋記念館」(1988)などが知られる。しかし筆者には、この二つの作品に横たわる、断絶というか変貌ぶりが気になっていた。
瀬戸大橋記念館に見られる歴史主義(古典様式)の引用は、独立後の山本の多くの作品にも共通している。そこには皮肉にも、山本が批判してやまなかった同時代のポスト・モダンがもつ皮相で「不協和音」的な気風が刻まれているように思われる。
一方、瀬戸内海歴史民俗資料館には、20世紀前半に歴史主義の否定を旨として世界を席巻したモダニズムが、伝統との折り合いあるいは再解釈に取り組んだ1950-60年代の動向が踏まえられている。そこには安易な歴史の参照や引用とは異なる、独自の境地が滲み出るように表現されているといってよい。
山本の表現の中に見られるこのような二者が、どのような経緯で立ち現れてくるか見つめることは、それ自体が戦後の日本現代建築の基層を考えるという重要な課題に繋がっているように思う。それは、香川県庁舎(現・東館)を介した丹下健三-山本忠司、あるいは大江宏・芦原義信・大高正人・浅田孝-山本忠司という、中央建築家と山本との関わりの中で山本の中に徐々に形成されてきたものを確かめるということでもある。そのようなアプローチは、筆者自身まだ行っていないが、山本が行政の営繕組織とは無縁な形で発想できた空間にその端緒を純化された形で見ることができるのではないか、というのが「城の眼」に対する筆者の最初の関心であった。
しかし、偶然にも「城の眼」に居合わせた岡田賢氏(岡田石材工業)から話を聞く機会を得て、建築家としての山本を形造ったより多くの背景と人脈に眼を向ける必要があることを痛感した。と同時に、筆者の中では個別の問題関心にとどまっていた事象が、岡田氏という「主体」や「城の眼」という「空間」を通して繋がっていくように感じられた。そのような「水脈」を辿ることで、山本忠司という「主体」を1950-60年代の高松に落とし込むことができるのであろう。
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