喫茶「城の眼」と高松の建築文化(6) [研究ノート]
ここで改めてニューヨーク世界博覧会日本館を見てみると、外壁を石積みで埋め尽くした圧倒的なボリュームと、開口部を構成するガラス窓と打ち放しコンクリートの組み合わせは、瀬戸内海歴史民俗資料館を彷彿とさせるものがあるように思える。
山本も「屋島陸上競技場」(昭和28年、香川県建築課)で石壁に取り組んでいるが、それは限定的に壁に収まる石貼り風で、立ち上がるようなマッス(量塊)を感じさせるものではなく、何かの飛躍を経て歴民に至ると見た方が自然である。
もちろん既に述べたように、前川にとっての石壁という表現は、戦時下での忠霊塔で試みられ、日本館で再度浮上する一時的な試みであったことから、前川が石壁というテーマに明確な解を提示し、それが歴民に直接的な影響を与えた、と見通すことはできない。しかし石壁によるマッスの表現という前川の試みが、「城の眼」建設あるいは事実上の施主である岡田氏に関わる過程で山本の内面に刻まれた可能性はあるのではなかろうか。
従来、歴民の設計案を山本が固めるのに大きな影響を与えたのは、山本自身が書き残しているようにルイス・カーンのインドでの建築とされている。地元の煉瓦で造られていく建築を見た山本は、そこに強烈な「土着的なもの」を感じたのである。そして瀬戸内海に面した土着的な表現として、基礎から生じた石という素材に着目した、とされている。
そうであったとしても、石壁という表現に至った作者の内面の変化(「土着性」への視点)と、背景をなす時代性(中央と地方という場、あるいは「日本的」とその中での「地域主義」という問題の立て方による年代差はあるが)ということに着目すると、1960年代の前川と1970年代の山本を取り巻く諸条件は、かなり似たものがあったように見えることを問題にしたい。前川は世界博覧会という仮設建築による試行に終わった(岡田氏の話では、博覧会終了後、移築されたため仮設ではなくなったが)けれども、「地域主義」により多くの軸足を置いた山本は「高度経済成長期末期の混乱から、うまく抜け出てさわやかな印象を受ける」(神代1985)建築に到達したのであろう。
前川と山本の直接的な繋がりがなければなおさら、踏み込み方の違いがあっても個別に到達した表現の共通性が注目されよう。また、彼らを間接的に繋いだ「城の眼」という場で交錯する地下水脈のような人脈についても、もう少し精査していく必要を感じるのである。
本稿の作成にあたり、岡田賢氏の多大な御教示があったことを明記しておく。また、鈴木清一氏(香川県土木部工事検査室)・橋本功氏(前川建築設計事務所所長)・喫茶城の眼から、有益なコメントや資料の提供があった。さらに『建築雑誌』のバックナンバーは日本建築学会のHPで内容を閲覧可能であり、大いに助けられた。以上の方々と機関に深い感謝の意を表したい。
参考文献(年代順)
前川國男1942「覚え書-建築の傳統と創造について」『建築雑誌』昭和17年12月号
前川國男1965「真の日本館を望む」『国際建築』Vol.32No.2
奥平耕造1965「ニューヨーク世界博・日本館」『国際建築』Vol.32No.2
流政之1987「私の履歴書」(「日本経済新聞」所収)
宮内嘉久1990「年譜ノート-前川國男小史-」『前川國男作品集-建築の方法』美術出版社
藤森照信1993『日本の近代建築(下)-大正・昭和編』岩波書店
松隈 洋2005「課題としてのテクニカル・アプローチ-1950年代前半期の可能性をめぐって」『近代建築を記憶する』建築資料研究社
生誕100年・前川建築展実行委員会監修2006『建築家前川國男の仕事』美術出版社
松隈 洋編2006『前川國男 現代との対話』六燿社
佐藤竜馬2006「治山と漁港~考古学からみた昭和戦前・戦中期の農村と漁村~」(中四国史学地理学協会発表資料)
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