喫茶「城の眼」と高松の建築文化(5) [研究ノート]

■3 「風土」「地域性」の表現と素材 

3-1.岡田賢氏と石材 

ニューヨーク世界博日本館あるいは「城の眼」に至る施工者としての岡田氏の経歴は、戦時体制下での石材加工に始まる。当時、父親の仕事を手伝いつつ戦没者の墓石を作る傍ら、戦闘機を製造していた三菱重工水島工業所の「石定盤」の試作に成功した。石定盤は部品規格の計測台であり、100分の1㎜程度の精度が要求される平坦面を作り出す必要があり、全国の石材業者に試作を依頼したものの、岡田石材工業のみが成功したというのである。以後、多い時で職工400人余りを動員して石定盤を製作したという。ここに表れた石材加工の腕の確かさが、戦後、ブランドとしての庵治石の隆盛をもたらす一因となったという。 

戦後、広島市街地の都市計画道「100m街路」の建設に参加し、復興が進む中で建築の施工にも関わりをもつようになる。既述のように前川國男設計の岡山県庁舎(昭和32年)はその早い例であるが、岡田氏が思い出深く語るのは香川県庁舎の建設(昭和33年、現・香川県庁舎東館)である。1階ホールとピロティの床石(敷石)を石工たちと加工し、玄関受付の机石と中庭の「人」形石を求めて丁場を歩き廻ったという。丹下研究室が石にこだわっていたというのは、戦後の庁舎建築に新たなスタイルをもたらした香川県庁舎のあり方を示唆する面白い話である。 

香川県庁舎は周知のように、外部と連続的な開放的な空間を生み出し、民主主義に相応しく県民に開かれた役所庁舎のイメージを提起し、以後の庁舎建築のモデル(規範)となったという。そのようなビルディング・タイプにとって、県民へ最初に相対する受付や、自由に人々が散策・休憩できる中庭は、開かれた庁舎を象徴的に示すパーツであり、そこに置かれる石造物への丹下研究室のこだわりは極めて象徴的と見ることができよう。 

同時にこれらの石が、瀬戸内海-香川という地域性や風土を表す素材として効果的に用いられていることもうかがえる。中庭では瀬戸内海や栗林公園・屋島といった香川(高松)の風景が表現されており直接的であるが、受付では切り出された庵治石の「自然の」湾曲がそのまま利用されており、石材の自然面を活かすという形での地域性の表現が見られる。ちなみに中庭は当初は設計に含まれていなかったが、金子知事の依頼により丹下事務所のスタッフが模型を作成、丹下のチェック後に基本図面を作成、さらに現場で金子や山本と相談の上、決定したという。すなわち、丹下独自の世界観としてではなく、金子・山本という地域性を担う関係者の世界観も込められた上で、岡田氏という施工者が手がけているのである。 

高松一の宮団地(昭和34年)も丹下の設計によるものだが、そこでは団地を取り巻く塀に現場から出た砂岩玉石が練積みされており、独特の表情が与えられている。この石塀も岡田氏が施工を担当したという。 

細密精度の製品から彫刻的な施工まで、岡田氏の石に対する関わり方は多彩である。石材の種類も庵治石(花崗岩)にこだわらず、求められるイメージに適う石材を世界規模で調達・施工している。そこには施工者としての自負は勿論であるが、単なる施工者にとどまらない側面もうかがえるのである。 

3-2.山本忠司に見る素材の問題~1970年代の2作品から~ 

1970-80年代の山本忠司は、「風土」や「地域」をキーワードにした多くの言説を残している。それは「瀬戸内海歴史民俗資料館」(昭和48年、以下「歴民」)・「大的場健康体育センター」(昭和52年、以下「大的場」)という実作をめぐって展開された。具体的には歴民では外壁の安山岩積みが、大的場では内壁の土管片が「風土」や「地域」を表す素材として取り上げられたのである。 

山本の下で歴民を担当した鈴木清一氏(香川県土木部工事検査室)によると、紆余曲折しながらも石積み外壁は当初設計からあったといい、事前の地質調査により現場での石材調達を考えていたという。石積みは、当初は面を揃えて施工されていたが、山本の意見により表面の陰影が強調されるように面に出入りをつけたという。石壁の各所に大振りな石をはめ込むことでもアクセントが付けられており、石壁の表現としては高松市女木島の「オオテ」(石積みの暴風壁)をイメージしていたという。

歴民.jpg歴民の石壁 

オオテ.jpg 女木島のオオテ

大的場では、当初はレンガタイル貼りの内壁が考えられていたが、現場より5km西の神在川窪(周辺に土管工場が集中)の海岸に打ち捨てられ、波に洗われ摩滅した陶片が玄関ホール周辺の内壁に貼られていた。これには海水浴場がある海辺の主題を、健康増進を目的とした同施設の内部へと持ち込むことが意図されていた。大きなガラス窓や間仕切りが、外界との連続性をより強調する効果を生み出す。 

画像 045.jpg

大的場02.jpg

大的場03.jpg

大的場.jpg

山本にとって石や陶片は、建築と外界とを有機的に繋ぐための素材であった。これらの素材と建築プランにより外界との連続性や一体化が表現されていることになるが、それはいみじくも前川國男が有機的で周囲に溶け込む建築への方向を明確にした時期と完全に一致する。そういえば、山本の歴民と前川の岡山美術館(現・林原美術館)は、外壁の素材の違いはあっても、意外に近い雰囲気を感じさせるように筆者には思える。とはいえ鈴木氏ら当事者には、前川の建築とのイメージの接近については意識されておらず、事後的に大枠で共通する傾向が指摘できる、といえるのかもしれない。 

3-3.土木構造物に見る「地域性」~1930-50年代の構造物と地域の素材~ 

ところで、当事者がどのように意識していたかを問わなければ、近代建造物の「地域性」はむしろ土木構造物に先行的に見出すことができる。最も典型的に表れたのが、1930-40年代(昭和戦前期)の砂防堰堤であり、香川県では砂岩川原石をコンクリート練積みにした「財田川類型」と、花崗岩切石を空積みした「鴨部川類型」の存在を指摘できる(佐藤2006)。いずれもその地域で入手できる石材とその加工技術の応用が認められるという点で、近世以来の流れを汲む「土着性」が指摘できる建造物である。ことに財田川類型は、戦後の昭和20~30年代にかけて堰堤背後など通常眼に付かない箇所でコンクリート打ち放しを露わにするが、依然として石を用いている点で、本来の構造(石積み)から遊離した表現が認められる(考古学でいう「痕跡器官」概念)。 

砂防堰堤に見られる「土着性」は、本来は手近に施工素材を入手・利用するという発想が明確であり、それは工事費の大半を地元住民への賃金に充てることを旨とした昭和初期の不況対策を背景としていた(農漁村匡救事業がその典型)。戦後、香川県庁舎や一の宮住宅と同じ時期にコンクリート構造へと転換した後も、機能ではなく意匠として石貼りが残されたのであるが、そこには「地域性」や「土着性」といった言説を見ることは困難である。これは他地域の砂防堰堤についても同様である。 

このように見てくると、「風土」や「地域性」と素材という問題機制は、同時代の当事者の意識と後付け的な「歴史」という視点では、微妙に(かなりとすべきか)喰い違っていることが分かる。とりあえず問題にしたいのは当事者の意識ではあるが、それは同時代の当事者の意識には上らない土木構造物も含めた、より広い範疇の「土着性」の中からすくい取られ、限定されていくように、結果的には見受けられるのである。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。