喫茶「城の眼」と高松の建築文化(2) [研究ノート]

■2 「ニューヨーク世界博覧会日本館」とその試作としての「城の眼」 

2-1.日本館の概要 

ニューヨーク世界博覧会は、昭和39年(1964)4月から翌年3月まで、ニューヨーク市で開催された。日本館は「博覧会全体のほぼ中央国際地区の国連街およびアイゼンハワー散歩道と名ず(ママ)けられた二つの道路が交差する角にあってオーストラリア館と向かい合ってい」たという(岡田石材工業作成アルバムより)。日本館は3棟から構成され、このうち1・2号館の建築設計を前川國男建築設計事務所、構造設計を前川のパートナーである横山建築構造設計事務所、彫刻石組の設計を流政之が担当することになった。

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その特徴は、①正方形プランの1号館と「コ」の字形プランの2号館が接しており、やや単調ながら雁行・周回する導線であること、②1号館の外壁のほとんどが彫刻の施された石積みで、周囲が池に縁取られていること、③1・2号館の間に舞台を伴う池と石庭からなる中庭があること、である。いずれも1960年代を通じて次第に明らかになってきた、前川の新たな作風である。

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特に②は、城壁と堀を連想させるような外観であり、前川が手がけたコンクリート打ち放しのブリュッセル万国博日本館(昭和33年:1958)から大きく変化した要素であることが分かる。彫刻の施された石壁は大きな衝撃を与えたようで、「ストーン・クレイジー」と呼ばれたという。 

2-2.石彫石壁の施工 

流政之が設計した石彫石壁は、庵治(高松市庵治町)の岡田石材工業によって施工された。石材には、萩(山口県)と大根島(島根県)産の玄武岩が用いられ、昭和37年(1962)9月に採取され始めた原石は庵治へと運ばれた。昭和38年3月からは、工場の敷地に並べられた石材に流が下絵を描き込み、それを職工たちが彫った後で番号が付けられ、神戸港からニューヨークへと送られた。石材の総数は、約3,000個で約550tに及ぶ。流を含めた職工7名は昭和38年9月1日に羽田を出発し、現地雇用の作業員9名とともに、翌年4月まで現場での石積み作業を進めた。

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流は昭和35年(1960)、庵治で彫刻を始めており、昭和37年には太田秀雄ら若い職人たちと「石匠塾」を結成した。翌年、岡田石材工業の職工としてニューヨークへ派遣された7名は、この石匠塾のメンバーである。この前後の時期、流はアメリカで個展を初めて開催し、家具などのデザインの視点に立った「讃岐民具連」を結成してジョージ・ナカシマを招くなど、活発な活動を展開して彫刻家としての地位を確立するようになる(流1987)。石壁「ストーン・クレイジー」は、そのような流の動向を象徴する仕事であるが、結果として建築家・前川國男と石工・岡田賢氏がこの時期の流を支える存在といえる。 

前川國男が流を担当に据えたのは、流の父親・中川小十郎と前川國男との人脈(中川が創立した立命館高等工業学校を前川が設計、昭和14年竣工)があったからだという(岡田氏の証言)。また、前川と岡田氏との関係は、確認できる作品で見ると岡山県庁舎(昭和32年:1957)に遡る。さらに流は庵治で活動を始めた当初、岡田氏を頼っている(岡田氏の証言)。つまり、それまで個別の繋がりであった中川(流)-前川、前川-岡田氏、岡田氏-流という繋がりが、日本館1号館の設計・建築を契機に結び付き、3者にそれぞれ多大な影響を残したと見ることができる。

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※写真提供 喫茶「城の眼」


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