喫茶「城の眼」と高松の建築文化(1) [研究ノート]

喫茶「城の眼」と高松の建築文化【2007年】

佐藤 竜馬 

■1 喫茶「城の眼」から垣間見えた「地下水脈」  

そこは、居心地の良さが感じられる空間のように思えた。新陳代謝が進む街とは異質な、モダンだが懐かしいような良質な時間と空間。それが喫茶「城の眼」の第一印象である。

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喫茶「城の眼」は、香川県土木部建築課に所属し、後に独立した山本忠司(1923~98)の初期の作品として知られる建築で、昭和37年(1962)に竣工した。山本は1970~80年代には、瀬戸内海という「地域性」や「風土」を語り、表現した建築家として知られており、県庁時代に手掛けた「瀬戸内海歴史民俗資料館」(1974)や、独立後に手掛けた「瀬戸大橋記念館」(1988)などが知られる。しかし筆者には、この二つの作品に横たわる、断絶というか変貌ぶりが気になっていた。 

瀬戸大橋記念館に見られる歴史主義(古典様式)の引用は、独立後の山本の多くの作品にも共通している。そこには皮肉にも、山本が批判してやまなかった同時代のポスト・モダンがもつ皮相で「不協和音」的な気風が刻まれているように思われる。

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一方、瀬戸内海歴史民俗資料館には、20世紀前半に歴史主義の否定を旨として世界を席巻したモダニズムが、伝統との折り合いあるいは再解釈に取り組んだ1950-60年代の動向が踏まえられている。そこには安易な歴史の参照や引用とは異なる、独自の境地が滲み出るように表現されているといってよい。

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山本の表現の中に見られるこのような二者が、どのような経緯で立ち現れてくるか見つめることは、それ自体が戦後の日本現代建築の基層を考えるという重要な課題に繋がっているように思う。それは、香川県庁舎(現・東館)を介した丹下健三-山本忠司、あるいは大江宏・芦原義信・大高正人・浅田孝-山本忠司という、中央建築家と山本との関わりの中で山本の中に徐々に形成されてきたものを確かめるということでもある。そのようなアプローチは、筆者自身まだ行っていないが、山本が行政の営繕組織とは無縁な形で発想できた空間にその端緒を純化された形で見ることができるのではないか、というのが「城の眼」に対する筆者の最初の関心であった。 

しかし、偶然にも「城の眼」に居合わせた岡田賢氏(岡田石材工業)から話を聞く機会を得て、建築家としての山本を形造ったより多くの背景と人脈に眼を向ける必要があることを痛感した。と同時に、筆者の中では個別の問題関心にとどまっていた事象が、岡田氏という「主体」や「城の眼」という「空間」を通して繋がっていくように感じられた。そのような「水脈」を辿ることで、山本忠司という「主体」を1950-60年代の高松に落とし込むことができるのであろう。

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たま毘羅

今日は、おひなさん会長のM下さんと
「瀬戸内海歴史民俗資料館」に行ってきました。
「人形(ひとがた)と流し雛」のレクチャーがあったからです。

内容はさておき、

このロケーション、建物は素晴らしい、とM下さんと話しておりました。

宇多津からちょっと遠い(約1時間)ですけれど、
そこまでのアプローチの海沿いドライブで見える風景も私は大好きです。

例えば、ここがホテルで、カフェもあり、
文化財等の資料も身近に触れることができる場所だったらいいな、
と一県民なりに、勝手に妄想を膨らませます。

そんな話って持ち上がらないのしら…
by たま毘羅 (2011-07-02 20:11) 

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