歴史的素材と文化財(未完)(5) [研究ノート]

2-4.名所・旧跡から「文化財へ」 

ネタ①~⑤の多様さというよりも雑多さをみていると、筆者には近世名所図会の世界が浮かんでくる。名所図会には、様々な素材が明確な階層化を伴うことなく並置されているからである。 

しかしもう少し慎重にみると、まち歩きのネタは名所図会の素材よりもより広範な、「当たり外れのある」素材と捉えた方がよいかもしれない。少なくとも名所図会で取り上げられた名所・旧跡には、編集者が何らかの価値判断を働かせ、選別する理屈が存在している。『金毘羅参詣名所図会』ではそれは、大坂から金毘羅大権現に参詣する人々が興味をもち、立ち寄ってみたいと考える、あるいは知識として知っておきたいと考えるような素材の選択として、表れている。それは今日でいう観光ガイドブックに取り上げられても違和感のない、それぞれの地域では名所・旧跡として紹介するに足る素材、という合意形成が行われたものを主体としているようである。 

これに対し、まち歩きのネタは地域住民等が模索しつつ、自ら価値を見出して顕在化させるものであり、せいぜいのところ個人か数人による選別の理屈が働いているのに過ぎないものも含まれる。名所・旧跡ですらないのだが、こうしたネタ発見のムーブメントは、まち歩きに限らず不断に行われているとみた方がよい。1920~30年代の今和次郎らによる考現学、1970~80年代の赤瀬川原平らによる路上観察学などはその典型例であろう。 

今和次郎は、関東大震災後の焼け野原に建ち上がったバラックを見て、     

焼けトタンの家は大抵真赤な重い粉を吹いた色をしている。それがこの頃はその色がだんだん淡くなりオレンジ色にかがやいて来ている。軽い文化住宅に見られる黄味の勝った赤瓦のその色のように、天気のいい日に生物の表面が特別に愉快に緊張しておる熊のようにそれらの家々は生き生きと瓦や焼土の上に生え出たように立っている。家々の拡がりは無量に大きく、民衆はそのうちに働いてうごいている。   「焼トタンの家」(1924年) 

と人々の逞しい生活のありように感嘆する。こうした感性は、例えば日本文化における「美」を論じた坂口安吾の、     

さて、ドライアイスの工場だが、これが奇妙に僕の心を惹くのであった。     工場地帯では変哲もない建物であるかもしれぬ。起重機だのレールのようなものがあり、右も左もコンクリートで頭上の遥か高い所にも、倉庫から続いてくる高架レールのようなものが飛び出し、ここにも一切の美的考慮というものがなく、ただ必要に応じた設備だけで一つの建築が成立っている。町家の中でこれを見ると、魁偉であり、異観であったが、然し、頭抜けて美しいことが分るのだった。                「日本文化私観」(1942年) 

という所感に通じるところがある。ごく最近、急速にファンを増やしている「工場萌え」にも繋がってくる感性である。

番の州.jpg 

こうしたムーブメントが、まち歩きではお客さんを案内することで、考現学や路上観察では出版や見学会などを通じて世間に示され、次第に広く了承(受容)ないし忘却(却下)されていく。その選択の結果として、名所・旧跡が地域に定着する。地域にとって、その素材がなにがしかの意味をもつことが認められたのである。 

現行の文化財保護制度よりも長いスパンと広い対象範囲で考えるなら、実はこうした名所・旧跡化こそが、歴史的素材の本質なのではなかろうか。ある歴史的素材が「文化財」という外皮をまとっていても、地域にとって意味のあるのは外皮ではなく、共有化されるべき価値や意識がそこにあるのかという点である。それがなければ、地域がその存在を誇れるものだと認識することは、あり得ないだろう。 

我々が日常しばしば遭遇する「文化財」は、本来的にはネタの掘り起こし→価値観の共有→名所・旧跡化→文化財化、という過程が織り込まれた「結果」であり「出口」であるということを確認しておきたい。

3.歴史的素材の顕在化過程 

3-1.清少納言旧跡としての清塚 

3-2.明治天皇の足跡としての聖蹟記念館 

3-3.戦後民主主義を体現する香川県庁舎旧本館 

 4.「文化財」の生きる途 

4-1.守備範囲の拡大と質的転換をめぐって 

4-2.観光・開発悪玉観の問題

4-3.何が、文化財として残るのか


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