歴史的素材と文化財(未完)(3) [研究ノート]

2-2.「目に見えないモノ」に価値を見出す 

なぜ文化財は、整備や修理・修復という手法により、不断の加工を被らなければならないのだろうか。建造物や文書・絵画・彫刻などの有形文化財、あるいは名勝や天然記念物についていえば、そうした行為を施さなければそのモノとしての形状・材質が失われてしまうからであろう。しかしそうした行為は、必ずしも「文化財だから」という理由で行われてきたわけではなく、そのモノがもつ本来の機能・役割の中で必要性があってメンテナンスが行われてきたと見る方が適当であろう。 

では史跡の「整備」は、どうか。既に述べたように、近年の「整備」は大規模なハコモノとして行われている。石碑や解説板を立てる、あるいは現状の維持に努めるというような、それ以前の状況とは大幅に異なっている。有形文化財などと異なるのは、モノとしての劣化・損壊を防ぎ、対処するという範囲から大きく踏み出し、捨象という形でむしろ積極的な損壊(純化?)が行われていることにある。 

有形文化財は、モノとして完結した範囲と位置をもっている。しかし史跡は、それが所在する場所の意味を含めて文化財としての価値をもっており、時間的にも空間的にも完結的ではないという特性をもつのではないか。このことは、広島の原爆ドームが、重要文化財(建造物)ではなく史跡として指定されていることに典型的に現れている。とすれば、その場所に蓄積されたものを捨象して提示する「整備」は、自己矛盾なのではないか。 

また史跡「整備」とは全く逆の事例となるが、現代の開発事業で破壊され消滅した遺跡のその場所は、無価値化してしまうのであろうか。遺跡を構成していた物質的な素材(遺構・遺物)は、発掘調査で腑分けされ、個別の物質資料に解体される(遺物)か、デジタルや紙媒体の情報に加工される(遺構)ようになる。これが「記録保存」という行為である。しかし、その遺跡の場所性あるいは場の記憶は、遺跡消滅後もその場所に残ると考えることもできるし、開発による破壊は新たな「遺跡化」と捉えることも不可能ではないのである。 

なぜ目に見えるモノとして提示したがるのか。そこには高度経済成長からバブル崩壊にまで至る、モノ重視の社会意識が強固な背景をなしている、と考える。1950~1980年代に価値観を形成した人々にとって、目に見え、手に触れることのできるモノこそが、最も信頼に足る存在であることは、意識的・無意識的に実感するところであろう。史跡「整備」の大多数を占める埋蔵文化財と、その基盤をなす考古学の取り扱う資料が、物質資料であるということ以前に、埋蔵文化財関係者・考古学者はそのような背景を背負った現代人(モダニスト)なのである。 

史跡が本来もっていた、モノに限定されない特性に改めて留意する必要があろう。そうした意識は、19世紀初頭にその淵源をもつことが指摘されているが、さらに遡った時代の人々にもみることができる。

京極殿、法成寺など見るこそ、志とどまり事変じにけるさまはあはれなれ。御堂殿の作りみがかせ給ひて、庄園多く寄せられ、わが御ぞうしのみ、御門の御うしろみ、世のかためにて、行末までとおぼしおきし時、いかならむ世にも、かばかりあせはてむとはおぼしてむや。大門、金堂など近くまでありしかど、正和の頃南門は焼けぬ。金堂は、そののち倒れ臥したるままにて、とりたつるわざもなし。無量寿院ばかりぞ、そのかたとて残りたる。丈六の仏九体、いとたふとくて並びおはします。行成大納言の額、兼行が書ける扉、あざやかに見ゆるぞあはれなる。法華堂などもいまだ侍るめり。これもまたいつまでかあらむ。かばかりの名残だになき所々は、おのづから礎ばかり残るもあれど、さだかに知れる人もなし。             『徒然草』第25段

三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。まづ高館に登れば、北上川、南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡が旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えたり。さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。                                夏草や 兵どもが 夢の跡                                                   『おくのほそ道』平泉 

これらの古典では、その場所さえあれば、そこには何もなくてもよい豊かな心性世界が謳われている。筆者は何も、「昔に帰れ」といいたいわけではない。①兼好法師や芭蕉にとって、旧跡は「現在の」自分たちの価値観を前提にして、初めて意味をもつ場であったこと、②その上で、彼らの洞察が廃墟あるいは何も残されていない旧跡の現状に対し、想像力たくましく往時の様子に思いを馳せる、主体的な姿勢にもとづくものであること、の2点に注目したいのである。あえていうなら、前近代において旧跡で最も大切にされていたのは、そこで起こった過去の出来事や物証ではなく、出来事の上に積み重なった時間を感じる経験だったのではないか。そうした経験こそが、それぞれの旧跡に固有な「場所性」を生み出していたと考えられるのである。そしてそうした旧跡(史跡)のあり方は、近代のある時期までは踏襲されてきたように思われるし、先述した破壊された遺跡についても有望な視座を提供すると考える。物質的に無くなったことは、必ずしも無価値化には直結しないであろう。 

最近オープンしたある史跡公園では、併設された資料館の職員が来館者に対し、その学術的価値を積極的に語りかけ、体験型の見学へと誘導している。語る努力こそ、目に見えないモノを提示することであり、一般見学者にとって無味乾燥にみえがちな史跡「整備」に、血肉を与えることにつながる行為であると考える。 

まち歩きの視点から、さらに引いて考えれば、その史跡が所在する「場所性」について、より深い理解をもたらすのは、何も歴史事象(出来事、地理的環境など)の積み重ねだけではない。それと密接に絡むであろうが、住民の間で形成されてきた地域意識(イメージ)を掘り起こし、できることなら、そうしたイメージを住民が自らの経験と言葉にもとづいて語ることが、「整備」された史跡の重要な付加価値を高めることに繋がると考える。

そのような「語る人材」のコーディネートこそが、場の魅力をさらに引き出すための工夫であり、「整備」の当事者が取り組まなければならない課題の一つであろう。

端岡駅撮影変更.jpg


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