歴史的素材と文化財(未完)(2) [研究ノート]

2.「文化財」を相対化する 

2-1.「目に見えるモノ」に偏向した「文化財」 

そうした地域の記憶が、郷土誌に拾われることは、残念ながらそう多くはない。むしろ意図的に避けられている気配さえある。そこには、「科学的」「客観的」であることを追い続けてきた、戦後歴史学のあり方が、色濃く反映されているように思われる。「客観的」であることを標榜し、重きを置いたため、目に見えるもの、形あるもの、しかも学問的に信頼の置けるものが何よりも重要視されてきた。 

目に見えるモノへの偏向は、近年の史跡「整備」にも見ることができる。史跡の中で整備された何がしかのモノは、当然のことながら現代の建造物あるいは加工物である。「整備」という行為は、まさしく現代の営みの一環として執り行われているのである。しかしこのことを、「整備」の当事者がどこまで自覚しているだろうか。 

人間の目は、非常に便利かつ都合よくできている。当事者にとっては、整備された史跡は「調査→学問的評価→復元案の提示→復元案の選択→復元工事」という過程を経ているため、完成した施設の形態がどうであれ、前提部分は了解されているのである。彼らは現代の建造物・加工品を通して、「造られた当初の姿」を見ている。しかし、復元という行為とその生産物は、極めて端的に時代性を反映している。昭和戦前期の「大大阪」の象徴として機能した大阪城天守閣のように、社会と文化財を結ぶ衝撃的な建造物は、何よりもまず現代の「作品」としての意味が求められ、共感を呼んでいたことを直視しておかなければならない。 

最近の事例としては、吉野ヶ里遺跡や三内丸山遺跡の「楼閣」、平城宮の朱雀門・大極殿がそれであるし、これから復元されるかもしれない高松城天守閣もそうである。それが文化庁の「厳格」な価値観から逸脱するかどうかは、この場合は関係ない。吉野ヶ里や三内丸山の楼閣、その他大多数の整備のハコモノは、建造当時、そして50年後においても、社会的に文化財として認められているだろうか(国登録有形文化財になった大阪城天守閣のように)。 

一般見学者にとって、史跡「整備」はどのように映るのか。彼らの目に飛び込んでくるのは、どこまでも現代の姿である。展示施設や遺構の露出展示があることは理解できても、なぜ史跡整備が「公園」というスタイル(景観)を取るのか、なぜ植栽がいびつな形で植えられているのか、整備された景観のどこまでが「本当の昔の姿」なのか、説明なしに理解できる人は限られる。 

このように現状での史跡「整備」は、当事者(専門家とは限らないので、こう表現しておく)から見学者へ、一方的に提供される、という形を取らざるを得ない構造的特質を備えているが、そのことに無自覚な当事者が多いのではないか。当事者は「客観的」であろうと努めるであろうが、その結果として新たに表現された建造物・加工物が、一般見学者に「ありのまま客観的に」受け取られるわけではないのだ。 

史跡「整備」には、もう一つ深刻な問題点がある。人間諸活動の累積された結果としての遺跡において、どの時代あるいは土層の状況(遺構)を整備対象とするのか、ということである。いったん整備されてしまえば、その場所に積み重ねられた歴史の一部分のみが顕在化・固定化され、それ以外の部分は捨象され、忘れ去られることになるからだ。

では捨象は、やむを得ない行為なのだろうか。

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