研究ノート 香川県における鉄道橋梁下部構造の考古学的検討(4) [研究ノート]

3-3.国有鉄道における組成の特徴

讃予線多度津・川之江間(大正2・5年)では、①床石を標準装備した石造躯体、②使用石材における花崗岩と砂岩の併用、の2点が指摘できる。

この路線は、国有鉄道としての敷設は四国初の事例であり、上部構造の桁部については比較的長径間の上路プレートガーダが鉄道院達第680号式、Iビームが達第875号式(ともに明治42年制定)という標準仕様が厳格に適用されている(註15)。                                                              下部構造についても標準設計は存在したが、使用素材の種類・形状・積み方や意匠の細部については細かな規定がないため、その地域における施工条件に規制された細かな差異は存在する。

例えば、同時期に開通した国有鉄道徳島線船戸・阿波池田間(大正3年)を見ると、讃予線の特徴①・②のうち、①は部分的に共通しているが煉瓦造もかなり含まれている。                                                                                                       ②については、徳島線では躯体の大部分は砂岩か片岩であり、花崗岩は床石に限定される。また翼壁は、讃予線では花崗岩間知石による定型的な谷積み2-a類が主体であるが、徳島線では片岩を用いた矢筈積みないし乱積みである。                                                                                   このような差異はあるものの、讃岐鉄道丸亀・琴平間で見られたような笠石や親柱、あるいはフランス積みという特異な要素は認められず、逆に素材の差異を超えた共通性が指摘できる。この共通性の背景にあるのが、標準設計ないしそれへの指向と捉えることができる。

以上のように国有鉄道の橋梁下部構造は、あくまで施工技術という枠組みの中で共通性と地域性の緊張関係をもちつつ、地域性を解消する方向で構築されたと捉えられる。                                                                                                             これはやや下る時期の国有鉄道路線において、より明瞭に指摘できる現象である。                                                                          土讃北線琴平・坪尻間(大正12・昭和4年)では、①床石を伴わないコンクリート造躯体、②翼壁における砂岩礫の練積み、の2点が指摘できる。①は高徳線津田・板野間(昭和3年)でも確認でき、大正末期~昭和初期の国有鉄道では通有の現象と捉えられる可能性が高い。コンクリートという汎用性のある素材の適用により、石造(・煉瓦造)で見られた地域性が払拭されると同時に、桁部を支える床石の機能も不要となったことが分かる。                                                                                                                  橋台躯体については、この段階で国有鉄道ではほぼ完全に均質的な形態と施工技術が確立したといえよう。

これに対し②で指摘できるように翼壁は、依然として地域性が濃厚であり、数年後には「財田川類型」という特徴的な砂防堰堤にも適用されていく。                                                                                                                    翼壁の完全なコンクリート化は、高徳線津田・板野間での限定的な適用を経て、戦後まで待たねばならなかった。その理由は明確ではないが、トンネルや他の土木構造物でも普遍的に見られたように、地場の素材が安定的に入手できる場合、その素材を優先的に使うという発想があった可能性は否定できない。施工技術の地域性は、翼壁に残されたまま戦後を迎えたのである。

 3-4.近郊私鉄における組成の特徴 

国有鉄道が施工技術という枠組みの中で地域性をもち、次第にそれを払拭する方向に進んだのに対し、大正期の近郊私鉄ではそれとはやや異なる傾向が見られる。

橋台を構成する躯体と翼壁では、既に見たように国有鉄道においても翼壁に根強い地域性が認められたため、ここでは躯体の形状のみを問題にする。

琴平電鉄(大正15・昭和2年)では、①床石を伴う石造橋台、②床石の意匠をもつコンクリート橋台、③床石を伴わないコンクリート造橋台、の3者が併存する点が特徴である。

①は複数径間をもつ土器川・綾川・香東川の3大橋梁(プレートガーダ)に、②は本津川橋梁・冨川橋梁など単径間のプレートガーダ橋か高松市街地に見られる複線の4主桁Iビーム橋に、③はその他のIビームやトラフガーダ橋に認められ、上部構造に対応した明確な階層性が見出せる。

同時期の土讃線・高徳線では、全ての橋梁で③の橋台躯体が採用されており、①・②のような例外は認められない。また、やや遅れて実質的に琴平電鉄が敷設した塩江温泉鉄道(昭和4年)においては①・②は払拭され、全て③で構成されるようになる。                                                                 したがって①~③が並存する琴平電鉄での橋梁組成は、国有鉄道およびその影響を強く受けた地方私鉄での組成から、明らかに逸脱した在り方を示していることが分かる。                                                                                                  琴平電鉄は、コンクリート構造の普遍化にも関わらず石造を選択し(①)、また機能上不要となった床石をデザインしている(②)のである。                                                                                           ただし讃岐鉄道のように、官設鉄道(標準設計)とは異なる系譜の存在を示すものではなく、標準設計の枠組みの中での古い技術の残存と、それに通底するデザインの採用という次元で捉え得る現象であることに留意する必要がある。


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