研究ノート 香川県における鉄道橋梁下部構造の考古学的検討(3) [研究ノート]

 ■3 各路線での組成

 3-1.路線毎の組成

各型式の組み合わせを路線単位で整理する。

開通年代別ではなく路線単位で整理する理由は、それらが同一年代(あるいは近接した年代)の施工単位であり、一括資料の前提となる「共存関係(共伴関係)」を保障する枠組みだからである。

讃岐鉄道丸亀・琴平間(明治22年:1889開通) 橋台1型式全てと2型式全てが認められるが、主体となるのは1-b、2-a型式である。

讃岐鉄道丸亀・西浜間(明治30年:1897開通) 橋台3-a・b型式が認められるが、この路線の当初構造物の遺存状況はかなり悪く、主体となる型式は特定できない。

高松電気軌道(明治45年:1912開通) 橋台3-c型式がある。この路線の当初構造物の遺存状況は悪いため、このほかの型式が存在したか否かは不明である。

東讃電気軌道(明治44年:1911開通、着工は高松電気軌道より遅れる) 橋台4-a・b型式がある。

国有鉄道讃予線多度津・川之江間(大正2・5年:1913開通) 橋台4-c・d型式がある。主体となるのは4-d型式である。

国有鉄道土讃北線琴平・坪尻間(大正12・昭和4年:1923・1928開通) 橋台5-a・b型式があり、両者ともに普遍的な存在である。

琴平電鉄(大正15・昭和2年:1925・1926開通) 橋台4-a、5-a、6型式がある。橋台5-a型式が主体で、4-a、6型式は少数である。

国有鉄道高徳線津田・板野間(昭和3・9年:1927・1933開通) 橋台5-a・c型式がある。橋台5-a型式が主体で、少数の5-c型式が認められる。

塩江温泉鉄道(昭和4年:1928開通) 橋台5-a型式が認められる。

この組成を年代順に見ると、大まかには石造(一部煉瓦造)からコンクリート造への変化が明瞭に読み取れることに気付く。ただし細かく見ると、近接した年代であっても必ずしも同一の組成をとらない路線があることも看過できない。

そこには、各路線の橋梁に対する認識の違いが反映されている可能性が指摘できる。しかしこの認識の差異を、上記してきたような「モノ」そのものの観察だけを積み上げ、峻別することは困難である。そこで、これらに付帯する情報で、上記観察結果と整合する可能性のある要素に留意しながら検討を進める(註11。それは、初期私設鉄道(註12・国有鉄道・近郊私鉄という、敷設主体と路線の性格付けに深く関わるカテゴリーである。以下この区分に整理して改めて分析したい。

3-2.初期私設鉄道における組成の特徴

初期私設鉄道である讃岐鉄道丸亀・琴平間(明治22年)の特徴は、①躯体における煉瓦造・石造の併存、②躯体におけるフランス積み主体、③笠石・親柱を伴う翼壁、の3点である。

①の類例は、全国各地の明治~大正期の路線では比較的よく見られることであり、ことさらに珍しいことではない。                                                              しかし香川では、地元に煉瓦生産地(観音寺市讃岐煉瓦など)を控えながら、讃岐鉄道丸亀・琴平間以外での煉瓦構造物の適用事例は皆無であり、当該路線での煉瓦の使用には特殊な事情が考えられる。

②の類例は、全国的に見ても極めて少ない。その理由は、フランス積みは美観に優れた組積法であるが、内部で目地が通る(芋目地)ために強度的に難点があることと、煉瓦の向きを1個ずつ変える必要があり作業上煩雑であることなどが挙げられている(註13。                                                           わずかに、九州鉄道玉名・宇土間(明治24~28年:現・JR鹿児島本線)、河陽鉄道柏原・古市間(明治31年:現・近鉄道明寺線)などでまとまって現存しているが、讃岐鉄道よりも遡る事例は存在しない。                                                                                  このため讃岐鉄道丸亀・琴平間は、橋梁下部構造へのフランス積み適用事例としては我国最古といえる。

③については、明治30年代以降の四国の鉄道橋梁では確認できない形態であり、おそらく全国的にも同様であると考えられる。                                                                                        讃岐鉄道とほぼ同時期に開通した山陽鉄道や大阪鉄道においても、このような形態は報告されていない。近似した事例として、明治7年(1874)開通の官設鉄道大阪・神戸間(現・JR東海道本線)の橋梁で存在したことが、古写真から指摘できる(註14)。                                                                                             ここでは讃岐鉄道同様、翼壁に笠石を備えているが、親柱の位置は桁座の上部に設けられており、翼壁両端に親柱を置く讃岐鉄道とは異なる。 

讃岐鉄道丸亀・西浜間(明治30年)では、上記特徴の①・③は全く見られなくなる。                                                                                  しかし、②についてはごく一部ながら石造橋台の中にフランス積み風のものがある。また、橋座部に床石を伴わない(明治22年区間も同様)など、明治末期以降の標準化された仕様とは異なる点を残している。

明治20年代は、官設鉄道においてもようやく技術の自立化(外国依存からの脱却)、およびそれに伴う標準設計確立への取り組みが行われつつあった時期であるが、それに収斂し切れない多様性を抱えていたことが指摘できる。讃岐鉄道に見られた橋梁下部構造の特徴は、官設鉄道とは異なる技術と意匠の系譜を示す可能性が高い。


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