研究ノート 香川県における鉄道橋梁下部構造の考古学的検討(1) [研究ノート]
香川県における鉄道橋梁下部構造の考古学的検討
佐藤 竜馬【2006年8月】
■1 序論
1-1.本稿の目的
本稿では、香川県内に所在する戦前の鉄道橋梁について、考古学的な方法で分析することを目的とする。取り扱う素材としては、橋脚・橋台などの橋梁下部構造とする。
橋梁下部構造を取り上げる理由は、それが施工後の大幅な改変を受けにくいという点にある。香川県内における戦前の鉄道橋梁の大半は、構造的に上部・下部が分離可能な桁橋(註1)であり、上部・下部が一体化したアーチ橋は極めて少なくラーメン橋(註2)は存在しない。上部構造である鉄桁は、耐用年数や設計荷重の変更などで架け替えが行われており、明治期のものはほとんど残っていない。
これに対して下部構造は、明治期のものもメンテナンスが加えられつつ現役の構造物としてかなり存在しており、明治期から昭和戦前期までの変化が追えるという利点がある。鉄道構造物としては、最も普遍的な存在なのである。
本稿では、そのような鉄道橋梁下部構造について型式分類と組成を検討し、その背景について考えていきたい。
1-2.研究史
鉄道橋梁をめぐる考古学的な研究は、現在までのところ皆無に等しい。
従来の研究は、専ら土木史から行われている。特に1990年代以降になされた、小西純一氏による歴史的鋼桁の集成作業(註3)や明治期の鋼桁形式の研究(註4)、小野田滋氏による煉瓦構造物や初期コンクリート構造物の一環としての研究(註5)が注目される。 両氏による形式・構造研究は、従来の主要橋梁を捉えた個別研究から、「群」あるいは悉皆的な分析へと進んでおり、地域さらに路線の特徴を浮き彫りにする契機となった点でも高く評価されるべき成果といえる。 こうした成果は、考古学的検討とも接点をもち得るものであるが、分類基準があくまで当事者(設計者)の視点である点で資料分析の前提が異なる。
ところで、橋梁下部構造の変遷に関しては、当事者(機関)による概括的な記述を除くと、ほとんど論及されていないのが実情である。 わずかに小西氏による明治期の橋梁下部構造の資料集成と基礎工に重点を置いた検討作業(註6)が挙げられる。 各地域の近代化遺産総合調査においても、特徴的な煉瓦橋脚・橋台が断片的に取り上げられる程度であり、地域ないし路線毎の特徴といった基礎的なデータの整理もなされていない。
1-3.考古学と土木史・建築史
ところで本稿で取り扱うのは主に外観上の特徴であるが、これについては土木史のデザイン・景観論で時折言及されることがある。
しかし、土木史での取り上げられ方は、あくまでも「美しい」か「珍しい」と判断されたものに限定される。 土木史におけるデザイン論は、近代ヨーロッパでは建築史および美術史とは不可分な関係にあるためであり、さらに根本的には「技術」と「美術」が本来明瞭には峻別されていなかったことに起因する。現在そして未来に寄与する技術・デザインの由来(発達史)こそが土木史の関心であり、鉄道橋梁の全てが取り上げられることはほとんどないし、その必要性も感じられていない。
これに対し、考古学の視点は、かなり異なったものである。「過去の人間活動の全ての所産」が、等しく資料としての扱いを受けるのが考古学であり、その総体から文化(政治・社会を含む)を再構築することに、考古学の真価が発揮されており、そのための方法論の鍛錬が行われてきたのである。 この基本的姿勢から鉄道橋梁を眺めたときに、土木史とは異なる視点が生じるのは当然であろう。 考古資料として橋梁下部構造を捉えようとする本稿の立場では、普遍的でありきたりなものの中にある特徴から歴史性を見出そうとする。「美しい」か「珍しい」かに関わらず、同じ歴史的資料として扱うのである。 その意味では、既に鉄道趣味の世界で使用される「鉄道考古学」という言葉は、あくまで表現上の比喩であり、考古学的な概念や方法論が十分に吟味・適用されているわけではないことがわかる。 本稿ではこの点に十分留意して、考古学的な資料操作を試みるが、既にみたように橋梁は土木史および美術史の世界で長く取り組まれてきた対象物であり、考古学(日本考古学)の世界で常識化した概念を適用する際には注意が必要なものもある。
その代表的なものが「様式」概念である。本稿で取り上げる橋梁下部構造の組成には、考古学でいう「様式」概念が適用できるが、ここではあえて「様式」という言葉は用いない。 その理由は、美術史において生成された「様式」概念が、その本格的な導入者である小林行雄自身の少なくとも2度の変容過程を経て今日の考古学的「様式」概念に至っており、「様式」を共通言語として用いることは困難と判断したこと、また代替できる基礎概念として例えば「組み合わせ」、「組成(アセンブレッジ)」、「相(フェイズ)」、あるいは編年上の区分を重視するならば「期」、「段階」などがあるからである。 ちなみに型式・形式・様式を語る際にしばしば引き合いに出される鉄道車輌の形式とその系統は、あくまで当事者の概念の反映であることを忘れてはならない。 当事者の認識を前提にしなければ、視点によってはこれとは異なる分類も可能であるし、過去の資料を取り扱う考古学がいつでも当事者の認識を知ることができるわけでもない。加えて、当事者分類のみが「正しい」歴史を物語るとは限らない。 何を語るための分類なのかが、問題なのである。
1-4.香川県内の鉄道網と検討対象路線
香川県における鉄道路線は、そのほとんどが戦前に整備されたものである。 狭い県土ながら、緊密な都市域の連鎖が見られること、本州とのアクセスを前提にした「四国の玄関」であること、また四国のほぼ全域を管轄下に置いた陸軍第11師団が置かれたこと、などの要因が東京・京阪神圏に次ぐ高密度な鉄道網を生み出してきたのである。
県内の鉄道網が最も充実していた昭和4~16年(1929~1941)には国有鉄道3路線、私鉄8会社9路線(登山鉄道2路線含む)が営業していた。路線と開通年代については、第1表(下表)を参照されたい。
県内の鉄道路線の特徴は、明治22年(1889)に開通した讃岐鉄道を嚆矢として、ほぼ10~15年間隔でまとまった区間が開通していることにある。これは他の四国3県には見られない現象であり、鉄道橋梁の変遷過程を検討する好条件を備えているといえよう。 このうち、現在でも橋梁下部構造がまとまって現存する9路線(現役路線8、廃線1)を検討対象とする(第1表網掛け部が検討対象)。 なお、本稿で用いる鉄道路線(区間)名は、歴史的経緯を重視する立場から、開通当時の名称を用いる。
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