■71 生駒氏の讃岐統治とその限界(3) [讃岐人の歴史 第3章]

1637年(寛永14)に生駒藩の借財の肩代わりとして、石清尾山の松を江戸の材木屋が伐採したことを直接のきっかけに、年寄・生駒将監の息子である生駒帯刀が江戸へ赴き、幕府老中土井利勝(高俊の義理の父)や藤堂高次などへ、前野らの所行を非難する訴えを提出します。

この訴えに対する評議は長引き、その間に高俊は江戸から讃岐に帰国しますが、藩主の帰国はかえって藩邸派に連なる国元家臣を勢い付かせます。                                                            翌年、高俊が江戸に参勤したのを機に、土井利勝・藤堂高次らの評定が再開されますが、この年に前野助左衛門が死去したため、生駒帯刀に対して訴えを不問に伏して事態の収拾を図ろうとします。                                この時点までは、幕府は生駒藩の存続を考えていたことが分かります。

しかし国元の讃岐では、助左衛門の息子の前野次太夫らと生駒帯刀らの対立は継続していたため、1640年(寛永17)に前野次太夫・石崎若狭と生駒帯刀が藤堂藩に預けられることになりました。                               これに反発した藩邸派の家臣と家族3、4,000人が、同年5月、江戸と讃岐から立ち退くという形で抗議行動を起こします。

これを公儀への異議申し立てと見た幕府では、両者の言い分を聞いた上で7月26日、生駒高俊の改易(所領である讃岐の没収)を決定しました。

前野・石崎・森・上坂ら藩邸派の主要メンバーはことごとく切腹、生駒帯刀・生駒左門・三野四郎左衛門は松江藩などに身柄を預けられました。その他の家臣も多くが離散しました。                                      以上の一連の党派争いを生駒騒動と言います。

立ち退きの人数の多さからすれば、家臣の半数は高俊=前野の政治路線に賛同していたことが分かりますし、背景となる状況を考えると、従来言われているような「生駒帯刀忠臣説」は、成り立たないことは明らかです。                                                                            むしろ帯刀は、惣領家に権力が集中し既得権益が奪われるのを怖れた、保守派の急先鋒と言えるでしょう。                                                                                      また、藩主高俊が愚昧だったとする後世の評価も、必ずしも当たっているとは言えません。

むしろ大きな流れとして、①中世以来の伝統的な地域支配者の否定(浅田右京事件)、②家臣のサラリーマン(官僚)化と藩主高俊の専制体制への試行、という2点が騒動の背景にあることに注目しなければなりません。

そしてこの動きに③藤堂家の藩政への介入と、④幕府による諸大名への統制強化いう流れが加わり、事態をより複雑で見えにくいものにした、と言えるでしょう。

8月、高松城の受け取りに幕府上使である青山幸成(尼崎藩主)が志度浦に上陸し、高松城は騒然となりますが、江戸にいた高俊からの説得もあり、無事に明け渡されました。                                      生駒高俊は、出羽国矢島に1万石を与えられ、少数の家臣とともに讃岐を去っていきました。                         西嶋八兵衛は藤堂藩に戻り、讃岐での経験を活かして伊勢で溜池の築造を行うことになります。

生駒氏の讃岐統治は、約50年という短期間で終わりましたが、中世に形作られてきた様々な地域の動きに、近世という新たな器と実質を与えたという点で歴史的評価がなされるでしょう。

(讃岐人の歴史 第1部 了)


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