香川県中世山城踏査記録 九十九山城(3) [松田英治の中世山城踏査記録]
短径最大約15m長径45m位で南が広く北に行くに従って細くなり、中央部に土塁を築く。土塁から北は少し低いので2曲輪とすべきかもしれないが、はっきりした段差がないので本稿では1曲輪とする。
南西隅には小さな石積みがあり虎口を開き枡形イに通じる。南辺には石垣らしき集石があり南辺、東辺エッジには鍵形に曲がる石列J(写真17)が存在する。続いて岸に接して4m×4m位の枡形状の掘り込みオがある。岸には道跡はないが岸の傾斜がやや緩く曲輪7に下りられ、掘り込みも方形でしっかりしているのでオを枡形虎口と認定した。
虎口オの南側は幅5m位帯状に少し低くなって岸には数段の石垣K(写真18)がある。虎口オの北側には石列があり北端は折れ土塁と向き合う。意味不明であるが曲輪を南北に画すためであろうか。
この石列の東側の岸には石垣L(写真19)・M(写真20)が築かれている。中央部に道が通るが最下段まで曲輪の中央を通っているので後世の道と考える。曲輪3岸下の際に棚状の石積みがある(点線部分)。上面を平らにしていないので城遺構とは考え難く此処に石塁を築く必要が無いので崩落したか、後世剥ぎ取った石垣の石を積んで整理したと考える。
土塁から北中央に枡形状の掘込みカがあり岸には道跡様の状況にある。北辺には石垣状になって北西端には崩落した石か石盛がある。
(6) 小曲輪群6
小曲輪が5つ集中する。特別な防御施設はないが道が曲輪5の北辺西寄りから東端の小曲輪(道跡が認められる)へ上がり、道跡は認められないものの上の曲輪へ上がって枡形虎口エに通じると考えられる。西端の曲輪には岸に接して竪堀が落ち、東端は小さな竪堀になっているが余りにも小さいので道跡であろう。曲輪5北西端の石盛が無ければ道は曲輪5西端~曲輪6群小竪堀~曲輪3へと通じ、竪堀は下の曲輪の西端を画し西側からの攻撃に備える。
(7) 曲輪7
南西側から枡形虎口オへ、北西隅から枡形虎口カへ通じ北東隅より曲輪8へ下る。この曲輪は通路を束ねる重要な曲輪で、岸には小さな竪堀がある。
曲輪7・8から下には10郭程構築しており特別な防御施設は無いが岸は比較的高く防御力を有し、岸はしっかりしていて残存度も良い。城道は曲輪9・10・11・12の北辺を通り、踏査時には道跡と思える地形をはっきりと確認できた。現在道は前述したように各曲輪の中央部を貫通し切岸を直登しているので現在の道と判断する。曲輪8・9の岸には石列が認められる。
(8) 曲輪13
この平坦地(曲輪)までを城遺構と考えている。理由は平坦地14の存在から旧地形は不明だがここから急斜面となっていたと思われ、北端が曲輪を画す様な小土塁状になって、向こう側にも2郭認められるからである。ただこの曲輪は他の曲輪と違っていて北寄りに小さな枡形状の掘り込みがあり南側がでこぼこしており、直下に旧軍の施設の存在から旧軍の施設の可能性がある。池田誠氏は砲台座を想定(香川県教育委員会2003の縄張図(図5)参照)している。
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