研究ノート 香川県における鉄道橋梁下部構造の考古学的検討(6) [研究ノート]

4-3.上部構造との関係 

橋脚・橋台は橋梁を構成する要素の一部であり、本来は上部構造を併せたトータルな関係性の中で把握された方が、より路線毎の特徴が明確になる。                                                                                                                                                         上部構造は古い路線ほど架け替えが行われていること、また鋼桁には「型式」(設計の型式)の特定が難しいものもあるため、ここでは予察的な提示にとどまらざるを得ないが、敷設当初の上部構造が比較的よく残っている大正~昭和初期の路線として讃予線・土讃北線・高徳線・琴平電鉄の4路線を比較してみたい。

上部構造の組成は、調査が不十分な高徳線を除き、讃予線(多度津・川之江間)では鋼桁34基・コンクリートスラブ桁9基、土讃北線(琴平・坪尻間)では鋼桁16基・コンクリート拱渠(アーチカルバート)3基・コンクリート凾渠(ボックスカルバート)13基、琴平電鉄では鋼桁50基・コンクリート拱渠5基・コンクリート凾渠4基となる(註23)。                                                                                                                       讃予線のコンクリートスラブ桁は、現地調査の所見では橋座を含めて改修の痕跡が明確であり、戦後の架け替えの可能性が強い。                                                                                                              したがって、大正初期(讃予線)から同末期(土讃北線・琴平電鉄)への変化は、鋼桁のみの組成からコンクリート構造が多用される組成への変化、換言すればカルバート(暗渠)構造の増加傾向ということになる。土讃北線の方が琴平電鉄よりもコンクリート(カルバート)構造が多いのは、阿讃国境に近い山間部で路線勾配を緩和するために築堤が多用されているからであろう。                                                                                                                       この時期のコンクリート凾渠は橋台上にRC版桁を渡す新しいタイプの橋梁であり、土讃北線・琴平電鉄では用水路を跨ぐ箇所に架けられた低い橋台を伴う、文字どおりの「暗渠」であったが、高徳線では里道をまたぐ架道橋として造られたものが多く、凾渠としては比較的長いスパン(6フィート:1.83m以上)と高さをもつようになる(写真12)。

写真12.jpg

限定的ながら翼壁にもコンクリート造が採用されていることと併せ、高徳線におけるコンクリート構造の普及と適用範囲の拡大傾向が明確に表れている。

一方、鋼桁もその内訳に路線の特徴が表れる。                                                                                                                            讃予線ではプレートガーダ(PG)6基・Iビーム(IB)24基・トラフガーダ(TG)4基、土讃北線ではPG9基(うち上路8基・下路1基)・IB7基、琴平電鉄ではPG9基(うち上路8基・下路1基)・IB39基・TG2基という構成である。国有鉄道では施工時の最新の標準設計が適用されており、例えば上路PGでは讃予線が達第680号式(明治42年制定:写真13)、土讃北線が達第540号式(大正8年制定:写真14)を一律採用している。

写真13.jpg写真13

写真14.jpg 写真14

これに対し琴平電鉄では鋼桁は、敷設年代から見ると旧式の達第680号式にもとづきつつ独自に設計されており、標準設計よりも主桁の高さが低いことが指摘できる(写真15)。

写真15.jpg

主桁の低さは、鉄道省の標準設計よりも設計荷重が軽く設定されていた可能性を示しており(註24)、その背景に国有鉄道とは異なる軽い車輌編成を前提としていたことが指摘できよう。同様の現象は、鋼桁各種の適用径間にも表れている。                                                                                 PGの適用径間は讃予線・土讃線では20フィート(ft)以上であり、18ft以下がIBの適用径間となっており、明治末期~大正前期の標準設計の規格と一致する。琴平電鉄では25ftがPG・IB適用の境界であり、標準設計よりもやや長い規格のIBが用いられていることになる(第1藤塚架道橋・第1御坊川橋梁)。このことも鉄道省標準設計ならびに国有鉄道よりも軽い荷重設計の採用を前提とした現象であろう。                                                      なお第1藤塚架道橋をはじめとする高松市街地の街路や主要道を跨ぐIB橋では、桁下高を確保しつつ強度を確保するために主桁数を通常の2主桁ではなく4主桁としている。

ところで高徳線では、PGに改造された明治期の古桁が認められる点が特徴的な現象である。事例としては津田・板野間の湊川橋梁(8スパン:写真16)・誉田川橋梁(3スパン)の2橋があり、銘板には「四名間式鈑桁改造」と刻されている。

写真16.jpg

「四名間式」とは関西鉄道の四日市・名古屋間で適用(明治22~30年架設)されたもので、イギリス人技師パウナルが設計した日本初の標準桁「作錬式」とほぼ同じ特徴をもつ錬鉄桁である(註25)。改造の詳細は不明だが、基本的には「四名間式」(「作錬式」)を踏襲しつつ、内側にL形鋼による対傾構を付加するなど若干の構造的な補強が行われたものと見られる。

古桁の再利用は珍しい現象ではないが、同じ国有鉄道でも土讃北線では認められないことであり、そこに前提となる諸条件の格差(車輌運行頻度・車輌編成・設計荷重)が反映されている可能性は十分考えられる。

以上のように、上部構造においても路線毎の特徴が指摘できるが、それは路線の性格や荷重の問題が設計段階で適正に処理された上で決定された現象であり、施工段階での地域性が反映される余地が全くないと評価できる。ここに下部構造とは異質な設計・施工体系を見出すことができる。                                                                                                                        橋梁に見られるこのような二元的な在り方を対比しつつ明確化することに、地域史を語る素材としての可能性を見出したい。

■5 おわりに  

本稿は、平成15~16年度に筆者が担当した「香川県近代化遺産総合調査」の成果を基礎に、改めて考古学的な視点からまとめた。

調査の過程で建築史・土木史の先生方とやりとりさせていただき、大いに勉強になったが、一方で建造物の見方や評価の仕方に少なからぬ違和感を抱いたのも事実である。ただこの数年間、考古学から遠ざかってしまった筆者には、考古学と土木史との間に横たわる違和感に対して、うまく折り合いをつけることができないでいる。脱稿まで何度も中断し、1年近い時間を費やしてもなお、この思いは変わらない。今後、事例研究を重ねることで、整理していきたい。                                                                                                                特定の遺物研究や「戦争遺跡」研究に終わらず、より広範に地域史や近現代史へと参画するために、考古学が取り組むべきテーマはまだまだある。そしてその大半は、未開拓である。考古学研究者による近代建造物の調査研究をお勧めしたい。

なお、本稿の作成にあたり、小野田滋(鉄道総合技術研究所)・小西純一(信州大学工学部)・北河大二郎(文化庁建造物課)各氏に御教示いただき、また研究成果を参考にさせていただいた。末筆ながら御好意に感謝申し上げたい。

  

()水平の架構材(桁)を架ける形式の橋梁。桁の素材は木・石・鉄・コンクリートと多様である。香川県での代表例には、浅津橋(大正5年:石桁橋:三豊市)・祓川橋(昭和11年:鉄筋コンクリート桁橋:満濃町)がある。 

()骨組み構造において上部構造と下部構造が剛結合されている形式の橋梁。大正期の鉄筋コンクリート構造の採用で急速に広まった。香川県での代表例は、瀬戸大橋線の高架橋(昭和63年:宇多津町)がある。 

()歴史的鋼橋調査小委員会1996『歴史的鋼橋集覧』第一集 土木学会。なお2006年7月現在、香川県のデータは公表されていない。  

()小西純一1993「明治期におけるわが国の鉄道用プレートガーダについてー概説」『土木史研究』第13号 

()a小野田滋1998「わが国における鉄道用煉瓦構造物の技術史的研究」『鉄道総研報告』特別第27号

   b小野田滋2003『鉄道構造物探見』JTB   

   c小野田滋2004『鉄道と煉瓦 その歴史とデザイン』鹿島出版会 

()小西純一1995「明治時代における鉄道橋梁下部工 序説」『土木史研究』第15号 

()小野田滋2003「橋台・橋脚の見方・調べ方」『鉄道構造物探見』JTB 

()桁の荷重を支え、橋台や橋脚にそれを伝達する箇所。その周囲の桁座を含み支承部という(小野田2003)。 

()石材の表面に粗割りの粗面を残す仕上げ。石材の輪郭のみ平滑に仕上げて素材の存在感を出す「江戸切り」という技法もあり、これらを積み上げる「ルスティカ積み」という装飾技法にも用いられる。 

(10)石材表面を細かく敲叩して平らに仕上げる技法。

(11)文献史料出現後の「歴史時代」の考古資料の分析に、「モノ」の観察以外の所与の要素を適用することは、妥当であると考える。古代宮都あるいは近世城下町の研究において、文献史料で得られた情報を織り込まなければ、研究は何と退屈なものであるか。それは、資料分析や解釈のレベルが高次であろうが基礎的次元であろうが、関係なかろう。要は、考古学的分析とそれら所与の情報との間に、どのような緊張関係を設定できるのかという、手法の問題に尽きる。そもそも考古学が1つの実体のように認め、2項対立的に捉えている「文献史学」的方法も当事者にとっては「歴史学」であり、実は整理し切れない雑多な視点と手法から成り立っていることを忘れてはならない。 

(12)鉄道国有法(明治39年)以前の「第1次鉄道熱」の中で全国各地に敷設された鉄道路線。華族の出資による日本鉄道のような半官半民的な会社(路線)もあり、山陽鉄道・関西鉄道・九州鉄道など、地域間を結ぶ広域路線をもち、後の国有鉄道路線の骨格を形成した。その意味で、明治末期~昭和初期の都市近郊型の私鉄路線とは性格を異にする。讃岐鉄道は実現した路線は高松(西浜)・琴平間にとどまったが、会社設立時の計画としては四国各地を結ぶ路線の建設がうたわれていた。 

(13)註5a・cに同じ。 

(14)註5b掲載写真より。 

(15)標準設計については、註5bを参考にさせていただいた。 

(16)香取多喜1889「讃岐鉄道の工事概要」『工学誌』第八輯。白川悟1994「鉄道の発達」『善通寺市史』第2巻所収分を参照した。 

(17)註5cに同じ。 

(18)藤井肇男2004『土木人物事典』アテネ書院 

(19)註5cに同じ。 

(20)県内の土木構造物については、香川県教育委員会2005『香川県の近代化遺産』を参考にした。 

(21)岡山県教育委員会2005『岡山県の近代化遺産』 

(22)柏原市教育委員会2000『文化財基礎調査概報-近代化遺産-』 

(23)註20にもとづく数値であるが、琴平電鉄については集計ミスのため再集計した。 

(24)小野田滋氏の御教示による。 

(25)註4に同じ。なお現地では、小野田滋氏より御教示いただいた。 


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