研究ノート 宇多津 角打ち文化宣言(2) [研究ノート]

■3 大熊酒店に集う人々

宇多津の大熊酒店は、江戸時代の丸亀街道(旧国道)に面した場所にある。向かいは網の浦郵便局があり、旧駅前商店街にもほど近い、まちの中心部だ。

創業ははっきりしないが、現在のご主人で3代目であるから、かれこれ100年は経過していよう。現在の店舗は昭和35年頃に建てられたもので、伝統的な町家の表構えに洋風にデザインされたモルタル壁を立ち上げ、あたかもコンクリート造のように見せる。建築史の世界で「看板建築」と呼ばれるものであり、年代的にはその最後を飾るにふさわしい大作である。ショーウィンドウを飾る豆タイルや、軒中央にうっすら見える大熊さんの家紋が、時代を感じさせる。町内の大工棟梁・神原さんが手がけた作品で、棟上に2日間を要するほど、しっかり頑丈に作られた。建築に立ち会った2代目店主の故・大熊一三(かずみ)さんは、「この建物は100年もつ」とよく言っていたという。

角打ち01.jpg

店内も昭和30、40年代の雰囲気があふれる。左側にカウンター、右側に土間と縁台があり、常連さんはカウンターで立ち飲みするか、縁台に腰掛けて世間話に興じつつ、酒を味わった。大熊酒店では最初、丸亀の酒「すきのか」をはかり売りしており、目盛りの入ったガラスコップを漆塗りの升に入れ、すりきれまで酒を注いで出していたという。居酒屋やバーがまだ町内になかった頃、大熊酒店はお手軽に飲める場所だった。

「土間には練炭コンロがあり、そこで目刺を焼いてアテにしていたんや。焼いた煙のススが天井やガラスを真っ黒にしてました」と、常連の吉田正さん(72歳)。吉田さんは最古参の常連だが、宇多津の生まれではない。

九州出身の吉田さんが仕事の関係で宇多津に来たのは、昭和48年。

小倉から来た吉田さんがアパートを探していたところ、部屋を借りる保証人になったのが、大熊一三さんだった。

当時の常連さんは、地元の香川生コンや森末組で働く人たちと、老人会の人たちの2グループあった。まだ明るい時間、会合を終えた老人会の人たちが店に立ち寄り、日が暮れた頃に入れ替わるように労働者たちが来たという。吉田さんは、森末組の人たちと一緒に飲み始めた。それから36年。 

「この店は、昔から飲みやすい雰囲気でしたが、メンバーが次々代わったことに時代を感じるな。まあ、ここが私の出発点ですわ」と語る吉田さんは、今、土間に置かれたテーブルの一番奥を指定席にしている。

角打ち04.jpg

■4 香川「角打ち」文化発祥の地 宇多津

吉田さんが通い始める少し前、番の州工業地帯での工場建設で北九州地方から多くの現場労働者がやって来て、宇多津で生活していた。また昭和50年代に行なわれた瀬戸大橋の建設にも、多くの労働者が九州から来た。彼らも日々の仕事が終わると、大熊酒店に立ち寄っていた。

「瀬戸大橋がつなぐ、角打ち文化」。そんなことも言えるのではないか。もともと香川にあったはかり売りの業態を、角打ちという形にしたのは、そのような他地域とのつながりがあったのではないだろうか。

そこであえて宣言しよう。宇多津こそ、香川における角打ち文化発祥地であると。

150年前、カール・マルクスは、「商品」には「使用価値」と「交換価値」があると述べた。「交換価値」とは、商品の生産に当てられた労働時間に置き換えられるものであり、労働時間は商品Aと商品Bを交換するのに必要な、抽象的な基準として示される。「使用価値」とは、商品使用者の欲求を満たす価値である。商品は、流通では交換価値として、消費では使用価値としての側面をもつが、使用価値が個人的なレベルにあり、交換価値と結び付かない場合は、「経済学の考察範囲外にある」とマルクスは言う。

だがマルクスは、人間にとっての使用価値について、もっと洞察すべきなのではなかったか?もし彼が、ベルリン・パリ・ブリュッセル・ロンドンの街で角打ちをしていたら、「使用価値」の哲学的省察をもっと違うかたちでできたのではないか?購入したワンカップを「飲む」行為に価値があるのではなく、「どのように飲むか」にこそ、角打ちの価値と醍醐味が現れるのだから。そしてそこにこそ、人間同士のつながりが実感できるのだから・・・・・。 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。