■24 寺と神社 地域社会の精神的支柱(4) [讃岐人の歴史 第2章]

《神社信仰と式内社》

9世紀になると、各国で祀られていた神が律令国家から位を与えられることが多くなります。

讃岐国では、大内郡水主神(836年、承和3)が文献史料に見える最初の例で、以後910年(延喜10)まで幾度も行われています。                                                  第1章3でも少し触れましたが、8世紀の『播磨国風土記』ですでに飯盛大刀自や讃伎日子といった讃岐の土地神が見えることから、7世紀以前に土地の神を祀ることは広く行われていたと考えられます。                                                               ただし、それが具体的にどのような形で祀られていたのかは、よく分かっていません。4・5世紀には大神神社(大和)や沖ノ島(筑前)のように、山や島そのものを神と見なし、山中の磐坐(いわくら)を依り代とする祀りの形が考えられています。

讃岐では飯依彦を祀る飯野山がその典型です。                                     しかし一方では、同じ時期に祭儀用と思われる特殊な建物が全国の遺跡で発掘されているため、自然地形から神社建築と単純に理解することもできないようです。                                 また建築史の世界でも、従来最古の本殿形式とされてきた神明造・住吉造・大社造などは、中世~近世の復古様式ではないかとの意見も出されており、最近の研究はかなり流動的です。

このような難しい点はありますが、8世紀後半には流造(ながれづくり)と呼ばれる最もポピュラーな本殿形式が完成し、それ以降、本殿を備えた神社の形が普及していったようです。                       神仏習合の影響により、土地の神と仏を同時に祀ることができ、かつ寺院よりも簡易な施設で事足りることが、こうした動きを促したのでしょう。                                           本殿が一定期間を経て老朽化すると、全く同じ形式のものが更新される(式年遷宮)ため、たとえば京都の上賀茂神社本殿は、その建築年代(1863年、文久3)にもかかわらず、古い形式をとどめています。                                                                  讃岐国では、現存日本最古の三間社流造である神谷神社本殿(1219年、建保7)が、古式をとどめる代表例です。                                                          ちなみに神谷神社の史料的な初見は865年(貞観7)で、この時従五位上を授けられています。

9世紀の神社への位授与は、最も保守的な人々の精神的・土俗的な部分に、国家の網の目が被せられたということもできます。                                                      それはすでに8世紀から始まっていましたが、一つの到達点を律令の施行細則をまとめた『延喜式』(927年、延長5)に見ることができます。                                             ここに讃岐国が祀るべき神社として24社が記載されており、このうち田村神社(香川郡)・城山神社(阿野郡)・粟井神社(刈田郡)の3社が、非常時の国家的祭祀を執り行う名神大社(みょうじんたいしゃ)とされています。

868年(仁和4)、国守菅原道真(在任866~870、仁和2~寛平2)が城山神に雨を乞うたのも、律令国家が定めた城山神社の高い社格=強い霊力を頼んでのことだったのです。


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