香川県中世山城踏査記録 九十九山城(5) [松田英治の中世山城踏査記録]

【回顧録】

最初に踏査したのは昭和54年9月8日であった。鞍部室本に着き登山口は連光院からとのことから山に取り付いたものの下の方は茅だった思うが草に阻まれ登山道に辿り着くのに難儀した。今思えば9月と言えば夏の直後、草が繁茂、木の葉が茂っているのは当然のことである。

なんとか道を見つけ城跡に辿り着き調査を始めたものの松喰虫による松枯れの倒木と草で前進が困難を極め、その中での踏査である。この時逆茂木による防御の有効性を実感した。調査は難航したが曲輪等遺構は確認でき作図したのが図7である。

松田氏第7図.JPG図7

この図を今見ると曲輪、土塁、石積みは勿論目測ではあるが曲輪の大きさ、土塁の高さ、石積みの高さ、切岸の高さなどを記し「初心者にしてはよく観察しているなあ」と思う。記憶は定かではないが道は現在と同じで各曲輪の中央を通り本丸に到達、本丸東端の土塁中央を通り、頂部には多くの人達が登山していた痕跡があったと記憶する。

当時の状況を表していると思うので調査ノートのメモを記す。

 1 調査日 昭和54年9月8日(晴れ)

 2 本丸に井戸ありと言われるが、2×3mの穴があり中央に大きな石があるだけで井戸とは断定できない。石積みらしきものもない。

 3 本丸に同心円状の石積みとあるがそれらしきものなし。崩れた石もない(相当量あるはず)。

 4 空堀様のものが本丸の西端にある。深さは約70cm。

 5 土塁① 高さ70cm長さ7m幅2~3m比較的良く残っている。土塁はしっかりしていて石列らしきものがあるが石は小さい。

 6 土塁② 高さ70cm長さ8m幅2m。この直ぐ東側は空堀様に70cm位低くなっている。そのために出来た土塁か。

 7 土塁③ 高さ6080cm長さ8m幅1.5mの土塁が残っている。土塀が崩れた様で弱々しい。中央部が道となっており少し低くなっている。幅も狭い。一部石列らしいものが見える。腰巻土塁か。

 8 石塁① 高さ50cm長さ120cm、1~3段積んでいる。北側にも1m位の石列らしいものがあり下の削平地には崩れたような石が多数ある。

 9 石塁② 高さ60cm長さ3m、簡単に2~3段積んでいる。少し北には乱雑だが石を積んだ様になっている。

 10 石塁③ 高さ5060cm長さ5m位石積みらしい所がある。

 

 11 横穴 斜線のない5×30mの平坦地に図(省略 古墳の両袖形の石室状で入口幅1.7m、奥の広い所3×3.5m、高さ2m)の様な横穴がある。凝灰岩をくり抜いている。4~5×30mの平坦地はこの穴を掘った時の凝灰岩を並べて作られたものと思われる。土留(岸)に凝灰岩を使っている。この穴は何のために作られたものだろうか。この穴の近くに薄いコンクリートで80×110の四角い穴を作ってあり少し下に径1m位の円い釜跡がある。横穴や斜線のない平坦地は城跡とは関係がないように思うが何のために作られたのだろうか。

 12 石塁4 角が立派に積まれた石塁で土塁様になっている。しかし土塁は6×10の平坦地を作ったときに出来たものと思われ城跡とは関係なく横穴や釜跡に関係がありそう。

この城跡はよく残っており本丸を取り巻いた曲輪をはじめ東に向かって作られた階段状の削平地は見るべきものがある。土塁も3箇所あり比較的よく残っている。本丸には井戸があると言われるがこの程度では断定できない。又同心円状に石塁があると言われているがそれも無い。ただ井戸跡らしき穴の周囲に円く石がころがっていたが不整形で石塁とは言えず崩れたとしても数が少なすぎる。

周囲は急斜面で特に西側は崖となっている(採石場だったかも知れぬ)し北側は海である。

この山は東西に長いので東に向かって削平地があるのはうなずける(西側は崖だったと思われる)。眺望は海、観音寺方面に開ける。この城は大軍には抗し切れないだろうが地方豪族との戦いであれば堅城であっただろう。

登山口である蓮光院水子供養地蔵尊の所に30×40の水輪2個積んであり大きな祠等凝灰岩の古い墓が蓮光院に多数見受けられる。また鐘楼の近くに笠(火輪)が10個程積まれている。

この山も岩山なので西側から採石されている。保存できないものか。

以上のように今の目で見ても悪条件の中、よく観察していると思う。

九十九山城は登山、調査には悪条件であったことは勿論であるが石垣の存在を確認したことで特別な思いがある。どの城にもそれなりの思いはある。しかし、なんと言ってもこの城には多くの石積みが存在しその石積みは総石垣の城引田城の石垣にほぼ匹敵するからである。

石積みの存在は地元では早くから知られており、昭和541215日発刊の『日本城郭大系』15(香川・徳島・高知)には「上3段に石積みあり」と記され、縄張図(図8)も載せている。

松田氏第8図.JPG図8 九十九山城要図(『日本城郭体系』15より転載)

又、四国新聞『古城をゆく』40(昭和52年2月10日)の記事に石垣についての記述は無いものの「本丸跡には同心円状に十段の石積みあり」と記されている。10段もの石積みは現在存在せず何処を指すのか不明であり、「日本城郭大系」にも記されておらず本丸にあったとすれば井戸と称される周りに石が並べられていることからこれを指すのか。しかしこの石列は1段で10段もの石積みが崩れた痕跡はなく周囲に残石もないので10段ではなく10個であれば納得がいく。他に比較的高い石積みはあるものの同心円状ではない。昭和52年から54年の2年間で石が持ち去られたのだろうか。可能性としては本丸の穴は井戸ではなく石積みの「のろし台」が考えられる。

特別の思いは常に胸にあったのでいつかは再調査しようと思っていたがその他の城調査、仕事の多忙、登山道の荒廃、城跡には松枯れの倒木のこともあって再踏査は延び延びになっていた。折りしも平成9年度から香川県の中世城館跡詳細分布調査が行われ、その調査に加わったことから是非九十九山城の縄張図を『香川県中世城館跡詳細分布調査報告』に載せたかった。縄張図は作成していなかったため踏査ノートの図(図7)を提出したものの中世城郭研究の権威村田修三氏(当時大阪大学教授)の縄張図(短時間の踏査のため詳細を欠く)もあって中世城郭研究家池田誠氏も単なる連郭式の山城とし興味を示さなかった。

平成13年の暮れか14年の初め頃と思うが四国新聞に「有志による九十九山の登山道を復元」の記事を目にした。何年何月何日だったか記憶ははっきりしないが直ぐに登山すると登山道は綺麗に整備され、驚くことに松枯れの倒木は1本もなく城跡は調査し易い状況になっていた。

この日は城跡を歩くだけで帰り池田誠氏に城跡の状態を知らせ同行して調査することを依頼。しかし池田氏は高松市香西町出身ではあるが東京在住で現役であるため仕事の調整がつかないのか返事がなかなか来ない。調査期間が僅少のため仕方なく観音寺市教育委員会の久保田省三氏に連絡、調査することにした。調査日前日、突然池田氏より明日午前11時過ぎに高松空港に着くとの連絡があった。慌ててその旨を久保田氏に連絡、昼から城跡へ向かったが城跡の保存(切岸を階段状に掘っていた)を頼んだことを記憶しているものの久保田氏が同行したかどうかは記憶にない。

調査の結果上3段に石垣の痕跡が有ることを確認、詳細に縄張図を作成することにした。そして平成14年3月25日縄張図(図5)の完成をみた。作成作業に当たったのは中世城館跡詳細分布調査のメンバー、池田誠・松田英治・山本祐三である。ここに調査報告書になんとか間にあい思いがかなった。大満足である。

その数日後3月28日・4月1日・4月2日と3日かけて作成したのが図3・4である。今回の調査の成果は池田誠、東信男、松田英治の意見が一致、九十九山城が総石垣の城であることを確認出来たことである。

平成23年3月10


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