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「屋島」という記憶 [研究ノート]

【屋島という場所】 

屋島という場所には、ある種のイメージが投影されているようである。その歴史的な積み重ねが、一まとまりの「土地の記憶」を形作っているといってもよい。天智天皇6年667)の屋島築城が、畿内から見た備讃海峡のもつ軍事的な重要性を背景にもつことは、多くの先学が指摘している。筆者の関心は、この築城という記録された史実が、その後の屋島の歴史的展開へと連鎖していくところにある。

【平氏政権と屋島】

寿永2年1183~文治元年1185)の1年4ヶ月の間、平氏政権が屋島を本拠にしていたことはよく知られている。『平家物語』では屋島での平氏を、都をはじめ世の動きから取り残された、滅び行く存在として描いている。しかし、そうした見方が平氏の滅亡という事件を経た後の、事後的なものであることは言うまでもない。実際には屋島時代の平氏は、ここから瀬戸内各地へ軍勢を展開して摂津福原を奪回し、都をうかがうまでに勢力を回復していたのである。平氏は戦略的な観点から、屋島を選んだと見るべきであろう。

【要害の地の記憶】

『平家物語』には、「八島の(城(じょう))」という表現が見えるが、これは鎌倉幕府の史書である『吾妻鏡』に「前の内府、讃岐屋島を以て城郭と為す」と見えることと共通する。この時代の貴族階級の一般的素養として、『日本書紀』は必須の古典であり、屋島を選んだ平氏や、その報せを聞いた都人や頼朝たちにとって、「讃岐国の屋島」と言えば『日本書紀』天智6年の記事を思い浮かべた可能性は十分ある。実際に屋島の城郭化が行われたかどうかは、屋島城の調査などで検証される必要があるが、平氏は「要害の地」というイメージにもとづいてこの地を選んだのではないだろうか。

【イメージの再現(1)】 

このイメージは、150年後に再び現れる。建武2年1335)、鷺田庄(現在の高松市西ハゼ町付近)で挙兵した足利尊氏側の細川定禅に対抗して、御醍醐天皇側の高松(舟木)頼重が「矢島の麓に打寄て国中の勢を催」したが、一族郎党討死にしている(『太平記』)。鎌倉幕府を倒した建武政権にとっても、屋島が軍事上の拠点であるという認識があったことが推し量れる。

【イメージの再現(2)】

さらに250年後の天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国攻略にあたり宇喜多秀家率いる2万余りの軍勢が屋島に上陸した後、高松郷(現在の高松市高松町周辺)の喜岡城を攻め落として讃岐を支配していた土佐の長宗我部元親を降伏させた(『南海通記』)。豊臣政権にとっても、屋島のもつ軍略上の役割が認識されていたと考えられる。

【中央からのイメージ】

ところで、述べてきたような「要害の地」のイメージは、讃岐の中で形成されてきたものではない。あくまで中央政府(国家)からの視点である。つまり、屋島という場所を中央政府がそのように見ていた、ということになる。同じような「場所」として、すぐに思い浮かぶのが関ヶ原である。天武元年(672)の壬申の乱における大海人皇子(天武)の本営設置、延元3年(暦応元年、1338)の青野原の戦い、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い、と古代から近世まで三度、「天下分け目」の戦いが行われた。もちろん、要害の地であるためには、地形的な特徴や交通関係などの実利的な要素がなくてはならない。関ヶ原は、実質的な畿内=首都圏と東国の境界にあたっており、古代の三関の一つ不破関が置かれたのもこうした事情による。ただ、同じように注目すべきは、関ヶ原の戦いで家康が陣を置いたのは、壬申の乱の折に大海人皇子が兵士たちに桃を配り勝利した、という故事のある桃配山(ももくばりやま)だということである。家康自身がこの故事を知っており、それを心理的に利用したところに、支配階層にとっての「要害の地」のイメージが生き続けていたことが読み取れる。

【イメージとのギャップ】

しかし、和歌や俳諧の世界における名所(例えば松島)と同じように、中央からのイメージは、ある固定した世界の中に安住する傾向がある。屋島のもつ「要害の地」というイメージが成り立つためには、少なくとも地形的に屋島が文字通りの島であり、他者の侵入を許さない地形条件をもつ、というシチュエーションが必要であろう。現実の屋島は、すでに平氏が拠った頃から、「塩のひて候時は、陸と島との間は馬の腹もつかり候はず」(『平家物語』)という状況であり、対岸の高松郷との間の海域は埋没を続けていた。15世には、片本(現在の高松市屋島中町・屋島西町)周辺に塩田が広がっていたと推測される。したがって中世を通じて、屋島に対する中央からのイメージと現実の地形条件はギャップを深めていったといえる。

【高松築城】

天正16年(1588)から始まる高松城と城下町の建設は、強い権力をもった豊臣大名・生駒氏が、イメージと現実とのギャップを埋めるために行った、新たな要害の地の創出とも見ることができる。その際、野原と呼ばれた場所を高松に変えたのは、単にめでたい地名だからということではなく、屋島を含めた高松郷のもっていた「土地の記憶」を奪い取る、という意図もあったのではないかと思う。

【イメージの連鎖】

こうした地域イメージの連鎖(記憶の継承)を経て、都市「高松」が成立してきたと考えると、また違った地域史の側面が見えてくるのではないだろうか。 

 

野原(高松)から屋島を望む.jpg


香川県中世山城踏査記録 九十九山城(5) [松田英治の中世山城踏査記録]

【回顧録】

最初に踏査したのは昭和54年9月8日であった。鞍部室本に着き登山口は連光院からとのことから山に取り付いたものの下の方は茅だった思うが草に阻まれ登山道に辿り着くのに難儀した。今思えば9月と言えば夏の直後、草が繁茂、木の葉が茂っているのは当然のことである。

なんとか道を見つけ城跡に辿り着き調査を始めたものの松喰虫による松枯れの倒木と草で前進が困難を極め、その中での踏査である。この時逆茂木による防御の有効性を実感した。調査は難航したが曲輪等遺構は確認でき作図したのが図7である。

松田氏第7図.JPG図7

この図を今見ると曲輪、土塁、石積みは勿論目測ではあるが曲輪の大きさ、土塁の高さ、石積みの高さ、切岸の高さなどを記し「初心者にしてはよく観察しているなあ」と思う。記憶は定かではないが道は現在と同じで各曲輪の中央を通り本丸に到達、本丸東端の土塁中央を通り、頂部には多くの人達が登山していた痕跡があったと記憶する。

当時の状況を表していると思うので調査ノートのメモを記す。

 1 調査日 昭和54年9月8日(晴れ)

 2 本丸に井戸ありと言われるが、2×3mの穴があり中央に大きな石があるだけで井戸とは断定できない。石積みらしきものもない。

 3 本丸に同心円状の石積みとあるがそれらしきものなし。崩れた石もない(相当量あるはず)。

 4 空堀様のものが本丸の西端にある。深さは約70cm。

 5 土塁① 高さ70cm長さ7m幅2~3m比較的良く残っている。土塁はしっかりしていて石列らしきものがあるが石は小さい。

 6 土塁② 高さ70cm長さ8m幅2m。この直ぐ東側は空堀様に70cm位低くなっている。そのために出来た土塁か。

 7 土塁③ 高さ6080cm長さ8m幅1.5mの土塁が残っている。土塀が崩れた様で弱々しい。中央部が道となっており少し低くなっている。幅も狭い。一部石列らしいものが見える。腰巻土塁か。

 8 石塁① 高さ50cm長さ120cm、1~3段積んでいる。北側にも1m位の石列らしいものがあり下の削平地には崩れたような石が多数ある。

 9 石塁② 高さ60cm長さ3m、簡単に2~3段積んでいる。少し北には乱雑だが石を積んだ様になっている。

 10 石塁③ 高さ5060cm長さ5m位石積みらしい所がある。

 

 11 横穴 斜線のない5×30mの平坦地に図(省略 古墳の両袖形の石室状で入口幅1.7m、奥の広い所3×3.5m、高さ2m)の様な横穴がある。凝灰岩をくり抜いている。4~5×30mの平坦地はこの穴を掘った時の凝灰岩を並べて作られたものと思われる。土留(岸)に凝灰岩を使っている。この穴は何のために作られたものだろうか。この穴の近くに薄いコンクリートで80×110の四角い穴を作ってあり少し下に径1m位の円い釜跡がある。横穴や斜線のない平坦地は城跡とは関係がないように思うが何のために作られたのだろうか。

 12 石塁4 角が立派に積まれた石塁で土塁様になっている。しかし土塁は6×10の平坦地を作ったときに出来たものと思われ城跡とは関係なく横穴や釜跡に関係がありそう。

この城跡はよく残っており本丸を取り巻いた曲輪をはじめ東に向かって作られた階段状の削平地は見るべきものがある。土塁も3箇所あり比較的よく残っている。本丸には井戸があると言われるがこの程度では断定できない。又同心円状に石塁があると言われているがそれも無い。ただ井戸跡らしき穴の周囲に円く石がころがっていたが不整形で石塁とは言えず崩れたとしても数が少なすぎる。

周囲は急斜面で特に西側は崖となっている(採石場だったかも知れぬ)し北側は海である。

この山は東西に長いので東に向かって削平地があるのはうなずける(西側は崖だったと思われる)。眺望は海、観音寺方面に開ける。この城は大軍には抗し切れないだろうが地方豪族との戦いであれば堅城であっただろう。

登山口である蓮光院水子供養地蔵尊の所に30×40の水輪2個積んであり大きな祠等凝灰岩の古い墓が蓮光院に多数見受けられる。また鐘楼の近くに笠(火輪)が10個程積まれている。

この山も岩山なので西側から採石されている。保存できないものか。

以上のように今の目で見ても悪条件の中、よく観察していると思う。

九十九山城は登山、調査には悪条件であったことは勿論であるが石垣の存在を確認したことで特別な思いがある。どの城にもそれなりの思いはある。しかし、なんと言ってもこの城には多くの石積みが存在しその石積みは総石垣の城引田城の石垣にほぼ匹敵するからである。

石積みの存在は地元では早くから知られており、昭和541215日発刊の『日本城郭大系』15(香川・徳島・高知)には「上3段に石積みあり」と記され、縄張図(図8)も載せている。

松田氏第8図.JPG図8 九十九山城要図(『日本城郭体系』15より転載)

又、四国新聞『古城をゆく』40(昭和52年2月10日)の記事に石垣についての記述は無いものの「本丸跡には同心円状に十段の石積みあり」と記されている。10段もの石積みは現在存在せず何処を指すのか不明であり、「日本城郭大系」にも記されておらず本丸にあったとすれば井戸と称される周りに石が並べられていることからこれを指すのか。しかしこの石列は1段で10段もの石積みが崩れた痕跡はなく周囲に残石もないので10段ではなく10個であれば納得がいく。他に比較的高い石積みはあるものの同心円状ではない。昭和52年から54年の2年間で石が持ち去られたのだろうか。可能性としては本丸の穴は井戸ではなく石積みの「のろし台」が考えられる。

特別の思いは常に胸にあったのでいつかは再調査しようと思っていたがその他の城調査、仕事の多忙、登山道の荒廃、城跡には松枯れの倒木のこともあって再踏査は延び延びになっていた。折りしも平成9年度から香川県の中世城館跡詳細分布調査が行われ、その調査に加わったことから是非九十九山城の縄張図を『香川県中世城館跡詳細分布調査報告』に載せたかった。縄張図は作成していなかったため踏査ノートの図(図7)を提出したものの中世城郭研究の権威村田修三氏(当時大阪大学教授)の縄張図(短時間の踏査のため詳細を欠く)もあって中世城郭研究家池田誠氏も単なる連郭式の山城とし興味を示さなかった。

平成13年の暮れか14年の初め頃と思うが四国新聞に「有志による九十九山の登山道を復元」の記事を目にした。何年何月何日だったか記憶ははっきりしないが直ぐに登山すると登山道は綺麗に整備され、驚くことに松枯れの倒木は1本もなく城跡は調査し易い状況になっていた。

この日は城跡を歩くだけで帰り池田誠氏に城跡の状態を知らせ同行して調査することを依頼。しかし池田氏は高松市香西町出身ではあるが東京在住で現役であるため仕事の調整がつかないのか返事がなかなか来ない。調査期間が僅少のため仕方なく観音寺市教育委員会の久保田省三氏に連絡、調査することにした。調査日前日、突然池田氏より明日午前11時過ぎに高松空港に着くとの連絡があった。慌ててその旨を久保田氏に連絡、昼から城跡へ向かったが城跡の保存(切岸を階段状に掘っていた)を頼んだことを記憶しているものの久保田氏が同行したかどうかは記憶にない。

調査の結果上3段に石垣の痕跡が有ることを確認、詳細に縄張図を作成することにした。そして平成14年3月25日縄張図(図5)の完成をみた。作成作業に当たったのは中世城館跡詳細分布調査のメンバー、池田誠・松田英治・山本祐三である。ここに調査報告書になんとか間にあい思いがかなった。大満足である。

その数日後3月28日・4月1日・4月2日と3日かけて作成したのが図3・4である。今回の調査の成果は池田誠、東信男、松田英治の意見が一致、九十九山城が総石垣の城であることを確認出来たことである。

平成23年3月10


香川県中世山城踏査記録 九十九山城(4) [松田英治の中世山城踏査記録]

(9) 平坦地14

城の先端部を巻くこの平坦地は紛らわしい。中央部の石垣を伴う土塁(写真21)辺りは城遺構と思えるが土塁の両側が旧軍の防空監視所構築のため相当改変されている。

IMG_0042.jpg写真21 石垣を伴う土塁

土塁の北側を14-1、南側を14-2として詳しく見ていく。14-1は山側を掘り込んで10×15m位の平坦地を造成し建物のコンクリート基礎が現存する。この平坦地が曲輪であったかどうかは現況では判断できないが北端に掘り残しの土盛があり現在道が突き当たる。両側とも通行可能であるが山側は少し高まり古い道跡のように見える。しかし山側は掘り取った状態なので土塁状であったか、土盛から中央土塁先端まで斜面であった可能性がある。しかし石積みの状況から先端は土塁状だったと思われる。

岸は掘り取った土を寄せ、せり出し広くなっていると思われるが、南端に方形の小さな櫓台状の高まりと西側に接して方形の小さな枡形状の掘り込みが有り、土塁との間が通路となっていることから14-1は枡形機能を持った曲輪があった可能性もある。枡形状の掘り込み(1×1m位と小さく少し下に窯跡と思える穴があるので城遺構ではないであろう)には南東の尾根からの道が取り付く。土塁辺りを城遺構と思えるとしたのは以上の事からであるが石積みも古い様に思え、土塁続きの小空間キ辺りも微妙である。

現在、南東尾根からの道は枡形虎口状の掘り込みに上がると土塁に突き当たり左折、再び右折するとキに到る(キ西側の竪堀表示は横穴を示すもので実際は急斜面である)。道はキから曲輪13に上がるが右側は土塁となって道は堀底状でくの字に曲がる。くの字に曲がるのは曲輪13南側へ行くためか、それとも直接曲輪12へ上がるためか。右側の土塁であるがキを掘り下げ、平坦地14-1の山側を掘り取ったため出来た可能性もありこの辺り微妙とした。何れにしても旧軍の改変がどの程度であったかはっきりしない限り城郭類似遺構とせざるを得ない。

平坦地14-2は城遺構ではないと考えている。理由は右端にある前述した横穴(写真22)である。横穴から掘り出した凝灰岩と思える石を岸に積んで平坦地を造成しているのと横穴は大きく防空壕か弾薬庫と思えるからである。東端は穴状地形で西端は一段低くなっている。高射砲の台座か。

CIMG0224変更.jpg写真22 横穴

平坦地14について必要以上に書いたのは城道が取り付くのは此処より他に見当たらず、上3段の石垣を含む遺構から織豊系城郭と考え、戦争遺跡は避けて通れないものの枡形虎口の存在を想定し得るからである。

(10) 東側斜面の段築

現在の登山道は東麓室本の宝珠寺境内からジグザグに登り、途中左側にミニ霊場と思える石仏が続くが中腹辺りから無くなり、しばらく登ると左側斜面に小さな帯曲輪状の段築が認められる。下方の石仏の存在から石仏の設置場所かもしれないが石仏が一体も無く行く道も無いことから城の防御施設の可能性がある。この様な小さな段築は堂山城(高松市)、城守山(じょうがまりやま)城(東かがわ市・さぬき市)に見られる。

(11) 城道

現在の登山道は前述の宝珠寺境内から平坦地14-1へ辿るが、城道はどうであろうか。城跡を踏査したかぎり、又縄張りにおいては東先端以外に道は認め難い。平坦地14-1を枡形虎口とすれば最も理想的であるが、現実味のあるのは土塁及びキ辺りに若干城遺構を留めると考えて、南東へ延びる尾根より取り付く道である。

(12) 城内の導線

曲輪13から本丸への導線は曲輪13から曲輪12へ上がり北端から曲輪1110~9~8~7へ、曲輪7からは二方に別れ南隅より曲輪5枡形虎口オへ至り北西隅虎口から枡形虎口イを経て曲輪3へ入り北側から西進、枡形虎口アから本丸に入る。もう一方は北西隅より枡形虎口カへ、曲輪5北西端から小曲輪群へ上がり曲輪3枡形虎口エに至る、又は北西端の石盛が崩れだとすれば石盛の西側小曲輪は曲輪5の一画となりここから曲輪3へ通じる。しかし虎口受状の小空間はあるものの曲輪3に枡形状の掘込みがないことから前記のエへ至るルートをメインの導線と考える。以下前記と同じである。

■3 考察

(1) 縄張り

九十九山城の縄張りは緩斜面で弱く敵が攻め来るであろう東方に多くの曲輪を築いて防御し、本丸にはその方面に対して両側に折れと土塁を構築、岸は高くして石垣を築いて防備する。

その下2段の曲輪には多くの枡形虎口を備え、高い岸に本丸同様強固に石垣を築く。本丸西側には現在3段の曲輪しか存在せず防御は弱そうだが岸には総て石垣を築き本丸、曲輪3には塹壕と思える鉄砲対策を施して防備を強化する。

縄張りは一見自然地形に即して設計されているように見えるが本丸や西側の曲輪を方形にしようとする意図が窺われ、上3段は折れ、塹壕、石垣、枡形虎口ア・イ・エ・オ・カ等(ア以外は掘込式)を構築していることから織豊系城郭の特徴が読み取れ戦国末期の大改修を示唆し生駒氏の支城網支配の一城郭を強く感じる。

(2) 破城について

香川県で破城を受けたと思われる城は引田城、九十九山城、獅子ヶ鼻城(和田城)である。平成2210月2日破城の痕跡があるかどうか、丸亀市教育委員会の東信男氏と確認調査をした。

まずこの城が総石垣かどうかであるが、筆者は上3段は石垣造りと見ているのは前述の通りである。同行した東氏も曲輪の岸を詳細に歩いた結果多くの石列・石積みが存在し総て繋がることから、同じ見解を示した。図6は東氏の想定図である。

松田氏第6図.JPG図6 東氏想定図 

筆者の目では多くの石垣の痕跡があり、本丸の東端部両側の折れから先端切岸までが石垣を剥ぎ取った、曲輪4の石列(根石)と曲輪が自然地形化している状況にあるものの破城と言えるかと言えば分からないと言わざるを得ない。その理由は次の事による。

ア 壊された石垣の残石の量が少ない。

イ 城跡の西端に古い採石場があるので石垣の石を持ち去った可能性が高い。勿論破城された石を持ち去ったのかもしれない。

ウ 曲輪5に石を整理したような石積みがある。

平成22112728日中四国城郭研究会(題材「破城」)に参加させてもらったが破城についての研究事例は全国的にも少ないようで香川県の破城についても始まったばかりで今後の調査を待つよりない。 

■4 おわりに

九十九山城の遺構について調査した結果を詳しく記した。その成果は石列を含む石垣の残欠を多く確認した事である。とは言っても草木の茂る中の観察なので詳細は不明で図中の石積みも石列の位置も正確ではないかも知れないが図示した辺りに存在することは確かであり、同行した石垣の専門家東氏も確認してくれたので強力な証人を得て心強く思っている。

少なくとも曲輪の切岸の草を刈り取ると石垣の詳細がはっきりし、思った以上の成果を得ることは確実であると考えているので是非大々的な調査が行われることを期待する。

【参考文献】

1 香川県教育委員会 2003 『香川県中世城館跡詳細分布調査報告』

2 池田誠 2010  『戦乱の空間9号』

3 松本豊胤編 1979  『日本城郭大系15巻 香川・徳島・高知』 新人物往来社


旅立った人 [館長日記]

ブログが中断していた半年間。宇多津というか自分の身の回りでは、いろいろあった。

仕事帰り、たまに立ち寄る大熊酒店。そこの常連さんで、最古参の吉田正さん(常連さんたちからは、“よっさん”との愛称で呼ばれてました)が、病で旅立たれた。

もう引退されていたが、一度、宇多津の復元塩田で塩づくり体験した際にも、手取り足取り教えていただいた。塩水を塩田にまく、「浜かい」の名手で、もんだれ杓をふるってまく塩水が霧のようになり、虹ができていたのが印象的だった。

そして、塩田だけでなく、大熊さんでの角打ちでも、店奥のいつもの指定席で、やさしく迎えてくれていた。吉田さんの雄姿は、研究ノートの「宇多津 角打ち文化宣言」でも紹介しているので、ぜひご覧いただきたい。

私にとって、大熊さんでの角打ちは、仕事疲れを静かに吹き飛ばしてくれる、大切な時間と場所だ。最初はおそるおそる、常連さんたちの片隅に加えてもらい、段々となじみのメンバーの一人になっていく過程が、しみじみ楽しかった。もしも、吉田さんがあの場にいなければ、大熊さんの常連になれたかどうか、あやしいものである。

ありがとう、吉田さん。お世話になりました。


香川県中世山城踏査記録 九十九山城(3) [松田英治の中世山城踏査記録]

(5) 曲輪5

短径最大約15m長径45m位で南が広く北に行くに従って細くなり、中央部に土塁を築く。土塁から北は少し低いので2曲輪とすべきかもしれないが、はっきりした段差がないので本稿では1曲輪とする。

南西隅には小さな石積みがあり虎口を開き枡形イに通じる。南辺には石垣らしき集石があり南辺、東辺エッジには鍵形に曲がる石列J(写真17)が存在する。続いて岸に接して4m×4m位の枡形状の掘り込みオがある。岸には道跡はないが岸の傾斜がやや緩く曲輪7に下りられ、掘り込みも方形でしっかりしているのでオを枡形虎口と認定した。

IMG_0002.jpg 写真16 石列I(中央は隅石で両側に延びる)

IMG_0027.jpg 写真17 鍵形に曲がる石列J

虎口オの南側は幅5m位帯状に少し低くなって岸には数段の石垣K(写真18)がある。虎口オの北側には石列があり北端は折れ土塁と向き合う。意味不明であるが曲輪を南北に画すためであろうか。

IMG_0028.jpg 写真18 石垣K

この石列の東側の岸には石垣L(写真19)・M(写真20)が築かれている。中央部に道が通るが最下段まで曲輪の中央を通っているので後世の道と考える。曲輪3岸下の際に棚状の石積みがある(点線部分)。上面を平らにしていないので城遺構とは考え難く此処に石塁を築く必要が無いので崩落したか、後世剥ぎ取った石垣の石を積んで整理したと考える。

IMG_0029.jpg 写真19 石垣L

IMG_0031.jpg 写真20 石垣M

土塁から北中央に枡形状の掘込みカがあり岸には道跡様の状況にある。北辺には石垣状になって北西端には崩落した石か石盛がある。

(6) 小曲輪群6

小曲輪が5つ集中する。特別な防御施設はないが道が曲輪5の北辺西寄りから東端の小曲輪(道跡が認められる)へ上がり、道跡は認められないものの上の曲輪へ上がって枡形虎口エに通じると考えられる。西端の曲輪には岸に接して竪堀が落ち、東端は小さな竪堀になっているが余りにも小さいので道跡であろう。曲輪5北西端の石盛が無ければ道は曲輪5西端~曲輪6群小竪堀~曲輪3へと通じ、竪堀は下の曲輪の西端を画し西側からの攻撃に備える。

(7) 曲輪7

南西側から枡形虎口オへ、北西隅から枡形虎口カへ通じ北東隅より曲輪8へ下る。この曲輪は通路を束ねる重要な曲輪で、岸には小さな竪堀がある。

曲輪7・8から下には10郭程構築しており特別な防御施設は無いが岸は比較的高く防御力を有し、岸はしっかりしていて残存度も良い。城道は曲輪9・101112の北辺を通り、踏査時には道跡と思える地形をはっきりと確認できた。現在道は前述したように各曲輪の中央部を貫通し切岸を直登しているので現在の道と判断する。曲輪8・9の岸には石列が認められる。

(8) 曲輪13

この平坦地(曲輪)までを城遺構と考えている。理由は平坦地14の存在から旧地形は不明だがここから急斜面となっていたと思われ、北端が曲輪を画す様な小土塁状になって、向こう側にも2郭認められるからである。ただこの曲輪は他の曲輪と違っていて北寄りに小さな枡形状の掘り込みがあり南側がでこぼこしており、直下に旧軍の施設の存在から旧軍の施設の可能性がある。池田誠氏は砲台座を想定(香川県教育委員会2003の縄張図(図5)参照)している。

松田氏第5図.JPG図5 『香川県中世城館跡詳細分布調査報告書』掲載の池田氏図


開通しました [館長日記]

永かった・・・・・・・・。

自分のブログに記事をアップできなくなって、早7ヶ月(涙)。なぜできなくなったのか、何をすれば回復するのか。さっぱり分からないのが、アナログ人間の悲しいところ。熱心の読者の方たちから、「最近、全然アップしてないけど・・・・・」と言われるのが、申し訳ないやら、哀しいやら。

なぜ、再開できたかも、よく分からないのですが、何とか再開できそうです。

そして、管理ページを見て、びっくりとともに涙、涙・・・・・・・。

もう、4万4千件以上、閲覧してくださっていたとは・・・・・・[たらーっ(汗)]

ひたすら感謝、としか申し上げられません。

アップしたいネタ、情報はまだまだありますので、読者の皆様、今後ともよろしくお願いいたします。


「モノ」としての、心霊写真 [館長日記]

お盆が近い。

というわけでもないのだが、最近、私の周辺では、妙に異界の話が飛び交う。ついさっき、立ち飲みしてきたところでも、常連さんが「妖怪」の話(自説?)を披露したりしていた。

異界に敏感な小中学生は、心霊映像を見て、大騒ぎしている。大騒ぎするくらいなら、見なければ良いのに、なぜ見るのだろうか?そんなことを思う当方は、よほど鈍感なのだろう。

テレビで頻繁に放送される心霊映像を見ていて、気になることがある。

やたら物質感豊かな映像が多いことだ。

人間の眼と同じシステムをもつが、そこには一切の「解釈」が入らない(はずの)映像機器に映る、「霊」の姿が、やたらに質感があるのだ。ということは、「霊」もまた、物質なのだろうか?

もしそうでなければ、物質感あふれる映像は、すべてトリックか、見間違いということになるはずだ。好意的に見れば、見間違いはその映像を見る受け手側の問題なので、あり得る話だ。何せ、どこかで読んだが、人間は3つの点があれば、人の顔と受け止める認識構造をもっているのだから。

しかし、見間違いで片付けられない映像や写真なら、どうなるのか?夏休みの宿題として、少し考えてみたい。

 


法隆寺は、焼けてけっこう [館長日記]

だが嘆いたって、はじまらないのです。今さら焼けてしまったことを嘆いたり、それをみんなが嘆かないってことをまた嘆いたりするよりも、もっと緊急で、本質的な問題があるはずです。

自分が法隆寺になればよいのです。

失われたものが大きいなら、ならばこそ、それを十分に穴埋めすることはもちろん、その悔いと空虚を逆の力に作用させて、それよりもっとすぐれたものを作る。そう決意すればなんでもない。そしてそれを伝統におしあげたらよいのです。

そのような不逞な気魄にこそ、伝統継承の直流があるのです。むかしの夢によりかかったり、くよくよすることは、現在を侮辱し、おのれを貧困化することにほかならない。

(中略)

私は嘆かない。どころか、むしろけっこうだと思うのです。このほうがいい。今までの登録商標つきの伝統はもうたくさんだし、だれだって面倒くさくて、そっぽを向くにきまっています。戦争と敗北によって、あきらかな断絶がおこなわれ、いい気な伝統主義にピシリと終止符が打たれたとしたら、一時的な空白、教養の低下なんぞ、お安いご用です。

 

岡本太郎『日本の伝統』(ちくま学芸文庫『岡本太郎の宇宙3 伝統との対決』所収、2011)より。

芸術論として、伝統をどのようにとらえ、継承していくか、ということを法隆寺金堂の焼失(昭和24年)を題材に取り上げ、「自分が法隆寺になればよい」と断ずる岡本太郎。

わが身を含めた創作者の問題に限定しないで、日々の生活を送りながら芸術に接する、ふつうの人々に向けたメッセージとして、「自分が法隆寺になればよい」と言っているのだ。

伝統=過去をどのようにわが身に引き受け、今日を生き、明日を見通すのか。それは、今日を生きる人間の問題であり、伝統を盲信することではない。そうした岡本の主張は、歴史(学)にも通底しているはずである。


香川県中世山城踏査記録 九十九山城(2) [松田英治の中世山城踏査記録]

松田氏第4図変更.jpg 

(1)本丸 

本丸1は20×45mの広さのほぼ長方形で、東端には高さ70cm前後の土塁を構築するともに南北両側を数メートル切り込んで折れを造り横矢を掛ける。 

この切り込みは後世の破壊かも知れないが現況では左右同形をしており石垣を剥ぎ取ったような地形でA地点には連続して写真2・3・4の石垣が残っているので城遺構と考えている。段差は約4mと高いが下の曲輪には多くの残石は認められない。 

写真2.jpg写真2 本丸の南面の石垣

写真3.jpg写真3 角斜面の石垣(南側)

写真4.jpg写真4 角斜面の石垣(北側) 

西端には幅5m位の土塁囲みの横堀地形があり岸には石垣C(写真5)や石列が見られる。

『香川県中世城館跡詳細分布調査報告』では堀としたが防御上は岸下に堀を掘ったほうが岸が高くなる(註1)ので防御力が強化されることから池田誠氏が提唱する塹壕(『戦乱の空間』9号)とすべきかもしれない。 

写真5.jpg写真5 石垣C

南辺は一部石垣B(写真6)があり石列が多く見られ崩れたのか石が散乱する。北辺に石垣・石列は見られないが西端に石列、東端が石垣を剥ぎ取ったような状況にあることから本丸の岸は総て石垣造りだったと想定される。北辺中央部には北に張り出す外枡形虎口アが構築されている。南辺中央にも虎口状地形があるが不整形で急坂なので虎口と断定できない。 

中央部は少し高まり井戸と言われる穴があり大石で塞がれている。周囲を石で囲んでいるが不整形でただ並べているだけなので現代のものと思われる。踏査時地元では「刀を埋めたと伝えられる」と言っていたが詳細は不明で、井戸かどうかは掘ってみないと分からない。北側折れの所にも浅い穴がある。 

写真6.jpg写真6 石垣B

(2) 曲輪2 

本丸西端直下からL字に巻く。西側短径8m前後、長径約20m、南側幅5~6m、長さ約40mを計り曲輪3に続く。北側、西側の岸には所々石積みが見られ、南辺の岸には約20m石列が確認できる。 

東端は土塁を築き曲輪を狭めて一人しか通れない通路状にし、曲輪3との間に3m×3m位の小さな石囲いの枡形虎口イを構えて曲輪2、3へ入る。曲輪を狭める土塁直下には竪堀と竪土塁ウを構築、枡形虎口の下には虎口受けを設けそこから曲輪5へ通じる通路が設定されている。竪土塁と竪堀の構築は虎口受けから西進するのを妨げ虎口へ向かわせるためである。通路には曲輪3より横矢がかかり岸には高さ1m位の城内で一番高い石垣D(写真7)が築かれ残存度も極めて良い。 

石垣の東端から石列(写真8)が一部途切れるものの約25m延び先端は「く」の字に曲がる石塁E(写真9)のようになって、その下には石列と竪堀もあり、登り石垣があった可能性を有し、曲輪2東端から石塁Eまでコンパクトながら巧妙な技巧的設計である。 

写真7.jpg写真7 石垣D 

写真8.jpg写真8 石垣D東端の石列

写真9.jpg写真9 石塁E 

(3) 曲輪3 

曲輪3は東端から西端まで三方を巡る。 

東端は幅10数mと広く南西隅に枡形虎口イを築き、直ぐ東側にはV字の石列がある。この石列の意味は不明である。東側岸の曲輪5との比高は5~6mと高く、滑り落ちたと思える石垣F(写真10)がありその他にも数段積んだ石垣(写真1112)が多く存在する。

写真10.jpg写真10 石垣F

写真11.jpg写真11 石垣F周辺 

写真12.jpg写真12 石垣F周辺 

東側中央に現在道が取り付き外枡形状小空間があるが不整形なので後世の道と考え、北隅に方形の枡形虎口状地形エがあり道が下の小曲輪へ通じ岸に石積みがあるのでエが本来の枡形虎口と考えている。西側に接して小さな台状の石盛G(写真13)があり石が散乱しているので石垣造りの枡形だったか。

写真13.jpg写真13 台状の石盛G 

この辺りの岸には数段の石垣H-1(写真14)や石垣H-2(写真15)が築かれ、石盛りGの直ぐ西に下の曲輪群に下りる道がある。西進すると浅い堀に突き当たり直進を妨げ少し進むと本丸枡形虎口アへ通じる道があり、幅5m前後の帯曲輪となって約50m続く。中央部に折れを伴い岸には石列が認められ石垣を示唆する。西寄りには竪堀が穿たれている。西端は幅6m前後、長さ20m位で南側半分には土塁を築き堀状になっている。此処に堀を穿つ必要はなく又浅いので本丸西端の堀状と同様塹壕機能を持たせたものと思われる。岸には石列が見られ南側は二重になっている。

写真14.jpg写真14 石垣H-1

写真15.jpg写真15 石垣H-2 

曲輪2と3には段差が無く曲輪3西端から曲輪2へ、上へ向かって渦巻状に本丸を囲む。本丸を帯曲輪が完全に巻くのは櫛梨山城(善通寺市・琴平町)・海崎城(旧詫間町)に見える。  

(4) 曲輪4 

最西端の曲輪である。幅5m長さ10m余りの長方形で重要視していたと思われ、岸は総てしっかりした石垣で固めていたようだ。現在石垣Iは1段(写真16)で曲輪面は自然地形の様に見えるが最上端は1m位高く石垣を破壊したために崩れたと思われる。 

曲輪4の西側は平坦で大石が並びその先は古い採石場と思われ垂直な崖となっていて旧状は分からないが平坦なことから曲輪だった可能性がある。

【註】1 勝賀城の本丸土塁下に2箇所見られる。

香川県中世山城踏査記録 九十九山城(1) [松田英治の中世山城踏査記録]

香川県中世山城踏査記録   九十九山城

松田英治

■1 起稿にあたって 

山城に興味を持ったのは昭和54年1月高松市教育委員会による勝賀城跡の調査が行われ、その調査に少しではあるが参加したことに始まる。 

                                      

当時は興味を持ったといっても山城歩きで縄張図も見取り図にすぎず、踏査が重なるにつれて山城歩きの楽しさ、面白さが募っていった。 その頃中世城郭研究会メンバー池田誠氏に出会い青焼きではあるが城の縄張図を手にするようになった。折りしも研究誌『中世城郭研究』・『図説中世城郭辞典』が発刊され多くの縄張図を目にするようになった。その縄張図を見て虎口、折れ、横堀等各パーツに魅せられ山城踏査にのめり込んでいった。

平成9年度から14年度にかけて香川県教育委員会によって中世城館跡詳細分布調査が行われ、調査報告書(香川県教育委員会2003)が平成15年3月に刊行された。 筆者は過去の経験を生かし多くの城調査に関わる縄張図や原稿を執筆したが、調査は仕事の関係で土・日に限られ城を緻密に調査することが出来ず紙数の関係もあって詳述出来なかった。 その後も追加調査を行い多くの城遺構を確認した。本稿はその成果を記録するものである(図1は再調査の中世山城)。

松田氏第1図.JPG 図1 再調査の中世山城分布図

 

 

■2 九十九山城(つくもやまじょう) 

九十九山城は観音寺市室本町江甫草山(九十九山)に所在する。

立地は『日本城郭大系15』の表現を借りれば「白砂青松(はくしゃせいしょう)で知られる有明浜の北端、海に半分ほど突き出た江甫山(九十九山)は、標高153mを測り、中腹から山頂部にかけてほぼ円錐形を呈する独立した山(写真1)である。燧灘に面する山の西側は切り立った岩場、南・北側も登攀の術がないほどの急斜面、東麓のみが丘陵状に延びて七宝山系の稲荷山西南麓の低い鞍部に接する。その鞍部に、海岸沿いで仁尾町へ抜ける県道(仁尾街道)が通る。いわば、江甫山はこの方面の関門ともいうべき位置にあり、北側足下の室本港はもちろん、一帯の海岸線を充分掌握できる立地である。なお、東南方に開けた平野部や燧灘海域への展望も良好であることはいうまでもない」とある。

IMG_0001.jpg 写真1 九十九山遠景

「山の西側は切り立った岩場、南・北側も登攀の術がない」は少しオーバーと思うが城周辺の状況(図2)をうまく表現しているのでこれに従う。城主細川氏については落城の様子の言い伝えはあるものの仔細はほとんど不明である。

松田氏第2図.JPG 

九十九山城周辺地形図(香川県教育委員会2003に一部加筆)

城(上3段)は総石垣だったと思われ石垣の残欠が随所に残り、頂部の本丸を中心に東西に延びる尾根上に階段状の曲輪群が構築されている。山麓には港を構え、七宝山から九十九山を囲むように苧扱(うこく)川が流れ総構えを呈し、外方の財田川とともに二重の防御線となっている。城の縄張りは図3で解説は図4拡大図で行う。

松田氏第3図.JPG 図3 縄張図

 


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